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2023年2月13日月曜日

2022年の振り返り

 2022年概要

  • 英語科主任になる

  • 3学年主任になる

  • 学校HP担当になる(昨年の分掌の業務に上乗せ)

  • 情報推進 主担当 継続(遠隔教育主担当兼任)

  • 吹奏楽部 主顧問 継続(創立百周年式典の記念行事担当)

→ 中高連携業務や授業軽減措置もあり,校内での授業が週8コマとなる

→ 育児との兼ね合いで,遅出勤務&定時退勤で時間外勤務を極力減らす


授業の少なさが生む焦燥感

 2022年を振り返ると,「何か英語からまた一歩遠ざかったなー」と思う。

通常,今の勤務校では各教員が週17コマの授業を担当する。私は,学校の取組として,週5コマを中高連携としてT2での授業参加を求められる。また,情報推進の主担当として4コマの軽減措置が適応される。校内の人事配置的な事情でこれらを兼任してしまったので,私の担当授業は通常の教員の半分程度である週8コマとなってしまった。(さらに言えば,2月以降の3年生が自主登校になってしまうと週2コマになるのだが,まぁこちらについては珍しくもない話だと思う。)

年度当初は「残った8時間、妥協なく授業を実践させる!」と意気込む気持ちもありつつ、「楽でいいなぁ」と楽観的に捉えている節もあった。実際にこれらは概ね正しい予想だった。情報推進の主担当として,教材や課題をデジタル化し,少ない接点でも生徒が自走して学習を継続できるような仕掛けづくりを仕込むのに,割と時間を費やした。配信型の課題のストックが増え,雛型としてはしばらく使えそうな素材を準備することができた。「いつか授業を同時並行で持ったとしても,配信ポチポチで,効率の良く学習展開をサポートできるぞ!」と思わなくはない。

ただし,そこに惜しみなく授業に全力を捧げられるような悠久な時間はなかった。勘違いしていたのだが,訳もなく授業が少ないわけではない。つまるところ,授業の時間の代わりに別の業務を充てられているだけであり,授業に注げる時間は増えないのだ。結果的に「目の前にある少ない授業でさえ,全力で取り組むには『何か』忙しい。」と潜在的に悩まされてしまう。『何か』忙しい,というのがポイントだ。新たに抱えた業務は,基本的には事務的なものか連携的なものが多く,確かにそれらは必要な業務であるものの,一つ一つは取るに足らない内容である場合が多い。結果,達成感が得られないため,一日の終わりに「今日は暇ではなかったのに,何をしていたのか思い出せない…?」という日も少なくなかった。年齢を重ねるとはこういうことなのかもしれないとは覚悟していたが,まさか勤務校2校目の3年目で経験するとは思っていなかった。これが私の専門性を評価された任命であれば自尊心を糧となりそうだが,どうやら小さい学校でのたまたまの人事配置の関係で玉突き的に降ってきた事故にすぎない。

このような状況だと,生徒に対する影響力の減少に焦燥感を覚える。授業をたくさん持っているときには,良いことだけに目を向けて,「これだけやってきたし,何かが効果なかったとしても,他の何かが効果があるだろう」と楽観的に取り組むことができた。成功事例を噛み締め,再現性を求める。失敗事例については,初めからなかったことにすればよいし,むしろ成功の再現に意識が向くので頭にも過らない。上手くいった生徒に意識は向き,彼らの複製を企てワクワクする。しかし,持ち授業が減り、バッターボックスに入る機会が減ってしまうと、打てなかった球が気になって仕方ない。綺麗な放物線を描いた打数が少なく,それ故、打ち損じた打席が強く印象に残る。そうすると,不思議と私の意識は以前よりも明確に、取組の悪い生徒に対して向いてしまう。いままでのような自己満足に浸れない。生徒の適性や志向を問わないような,教員の誰もが夢に見る最強の学習方法の立案を夢見る。優れた英語教師であれば,就職希望・進学志望・毎日の登校が困難な生徒といった多様性のある教室でも根こそぎ勉強に向かわせることができるのかもしれないが、あいにく今まで都合のいい部分しか見てこなかった自分には無理な話であり,何とも言えない焦燥感とストレスに苛まれる。ストレスと対峙しなければならないとき,私はしばしば合理化を試みる。つまるところ,「教員ができることなど,初めから大したものではない」と自分を慰めるようになりかけている。先日,「生徒は武勇伝で語れるような,新海誠作品で描かれるような高校生活を望んでいるわけで,その理想的な生活に学習はむしろ望まれないものなのではないのか,もう勉強なんてやめてしまった方が最大多数の最大幸福なのではないのか」と同僚に漏らしてしまった。根腐れしないか将来の自分が心配である。なお,未確定だが,来年はさらに授業が減るらしい。

と、ネガティブなことを綴っても仕方ないので、頑張るベクトルを設定する。少量を与えて最大限の成果を生むことに固執するのでストレスが生じていた。例えば、与えた課題の6割しか身に付かなかったとして、その取りこぼされた4割を気にするのはやめる。6割で消化されるのは仕方がないと割り切り、今までの2倍課すことで解決する。これができれば、今まで気にしていた取りこぼしの4割に対し、追加でぶつけた課題が6割身に付けばおつりがくる。従来であれば、全員に課題を準備し、それを回収の業務にはそれなりの時間が割かれていたが、配信の機能を活用すれば印刷や回収の過程は気にせずに済む。全員の集中力を維持するため!と言い訳しながらやってきた雑談も減らそう。生徒のインプットを増やし、アウトプットも増やし、量で攻める。どこまでいっても、性格的に質に対するこだわりを捨てきることはできないので、量に対して意識を強く持とうと思う。無造作に量を増しても真面目な一定数はやってくれるだろう。量を増やしつつ、達成感を感じられる仕掛けを意識しながら大量の課題を投下したい。


部活ってどこが終わりなの?

 英語の授業の次に,私がやりがいを覚えるのは部活動の指導だろう。教員を志す過程で部活動の指導に憧れを抱いたことはなかったが,業務に主顧問が割り当てられ,それ相応に時間を費やしていると,自身の経験を重ね,気持ちも入ってしまう。幸か不幸か,現在の部員のモチベーションは高い。部員に部活の時間設定を委ねると,なかなかのスケジュールを提案される。長い活動時間にはそれなりの目標設定が必要であり,部員たちのモチベーションの維持や個人差を埋める必要がある(必須の要素ではないとは思うものの,モチベーションの差で部員同士の人間関係が拗れてトラブルが起こる方が面倒臭い)。かくして,生徒を焚き付け,毎日の放課後2時間と毎週土曜日を部活に注力することとなる。それらしい目標設定の達成に向け,さらに活動は増え,さらに発展していく。部活に限らないが,目標に現状維持を掲げるのは何故か格好がつかない。成功はハードルに代わる。

現役はチャンスが限定的である一方で,指導者には任命される限り無限に挑戦の場が与えられる。かくして,期待感が業務のビルドアンドスクラップを許さない風土を醸し上げる。活動の発展を期待するのであれば組織の強化が必要であるが,校内の人的資源は常に限界寸前であり,外部委託できるような援助については明るい情報はない(制度がないわけではないが,依頼できる人材が都合よく見つからない)。うだうだと言い訳を並べてみたが,折り合いの付け所がわからないから頑張るしかない,というのが現状である。他の仕事に比べれば,達成感はある。ただ,妥協点が不明瞭で,どこか不安でもある。

 地方公務員法第30条には,「すべての職員は、全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当たっては、全力を挙げてこれに専念しなければならない。」とある。そう,全力を挙げなければならない。「全力」が勤務時間外までを指すかは触れられていないが,残念ながら教員の勤務時間に対する貞操観念は緩めな気がする。独身時代の自由な身であれば,自分自身の献身だけで済んだものの,今は事情が違う。休日に息子を風呂に入れ,彼のシャンプーをしているときにふと「人生において,家族との団欒を享受できるタイミングはそう長いわけでなないのだろう」と考えることがある。10年後の教員生活は想像に難くないが,10年後の息子のシャンプーについては少し難しいものがある。もちろん,子どもという言葉の定義から言えば,息子も生徒も子どもかもしれない。が,少なくとも生徒は家族には該当しない,私は「この学年は家族だ!」という熱いテーマを設定するような性分は持ち合わせていないので。今一度,部活動を始めとする教育活動全般において、成績ではない部分での達成目標を定義し、全力の注ぎ方を検討すべき時期なのかもしれない。


学年主任の理想像なんてもっていない

 今年度、学年主任になった。担任は初任校で3年しかしていないのに。まさか気にも留めていなかったので、学年主任の仕事振りを中止したこともなかった。わからん。

 勤務校は2科あり各1クラス。担任は初任校で、副担任も若い先生が充てられている。そして3学年。半分は今までに授業でしか関わってこなかった生徒たちで、もう半分は授業も持ったことがない。わからん。

 歴代の学年主任からの引継ぎも断片的にしかない。というか、ほぼない。校内の年齢構成的に、自分に学年主任の声がかかるのは若干覚悟していたが、まさか途中登板することになるとは思わなかった。

基本的に担任の先生が動きやすいように先に道を歩いてみて、障害物を潰すのが仕事なのかと思って動いてみた。さらに、使用した資料はわかりやすく番号を振り、データ化して、次の学年主任に引継ぎ作業がなくともこなせるように整備したつもりだ。

振り返ると消極的な学年主任だったと反省している。学年集会は一度も開かなかった。年度初めにタイミングを逃し、年度途中から「突然誰?」と思われるのが嫌だったし、クラスごとに卸してもらえば済む話ばかりだった。ただ、今思えば、初任校の担任に対して指針を示す立場だったと反省している。もっと「俺の学年だ!」くらいのリーダーシップを発揮しても良かったのかもしれない、例え突然校内の玉突き事故でやってきた3学年主任だったとしても。今までの学年会のカラーもあるから、そちらに染まっていけばいいか、と思って動き出してしまったが、冷静にその学年団を見れば学年主任・副担任・学年付きが新参という、70%超が入れ替わったほぼ新組織であり、担任は初任者なので、「今まで」もなかったのかもしれない。初任者の頃、もっと枠があった方がカラーを出しやすいと感じていたのを思い出す。ルール作り以外にも、守り方の指導が残っている。担任に対して、ルール作りまでさせるのは違うと改めて感じた。(もちろん、意見を反映させる調整役は必要だと思うが)

科を超えた学年の統一感は、他学年を見てもあまり見られない。来年も学年主任をお願いされたら、カラーを出していきたい。(でも、本音はもうやりたくない。せめて1学年からと思わなくはないが、それはそれで決めないといけないこと多そうだし。)



気づけば2月中旬。今年の振り返りはちゃんと年末に書き上げたい。


2021年6月27日日曜日

正しい「やりたいこと」の見つけ方

今回の記事では、八木仁平著『世界一やさしい「やりたいこと」の見つけ方 人生のモヤモヤから解放される自己理解メソッド』を基に、生徒の「やりたいこと」を一緒に考えるときの手順をまとめてみます。

本書は、中田敦彦や、サラリーマンYOUTUBER「さらためさん」でも取り上げられていました。


教員は「安定志向」を好みがち?


まずは超感覚的な話です。

生徒から進路志望を集めた際に、個人的に「えっ、、、」と思うような職業は以下のようなものです。


・声優

・イラストレーター

・ゲームクリエイター

・芸人 or 芸能人


上記の仕事は、直感的には手放しで応援しづらい職業です。理由を聞かれれば、「狭き門だから」とか「挫折した際に潰しが効かなそうだから」といったそれらしい理由を伝えることは出来ますが、実際のところはよくわかりません。完全なイメージで語っていることに気づきます。(とは言ったものの、上記の職業ではあまり「学力」を軽視しそうな傾向があり、進路希望が変化したときには取り返しのつかない可能性があるために、急いで個人面談を設けて覚悟や保険的な対応を行っているだけなのかもしれませんが。)


一方で、以下の職業を進路希望に書かれた際には、どこか安心してしまうような気がします。


・国公立へ進学

・看護師

・公務員


上記の仕事を進路希望に書かれて提出されると、なんとなく「速やかに声を掛ける必要はないか、、、」と判断してしまいます。おそらく、「とりあえず学習は必要だろう」と本人も考えてくれていそうだから、という理由を挙げることはできるのかもしれません。


しかし、よく考えてみれば、この判断は「自身の通ってきた道」が故に、何となくの安心感だと判断しているだけであり、実際にはこれらの職業を志せば幸せが確約されているわけではありません。


そこでふとした疑問が生じます。
「どのように進路志望を決めれば、生徒(を含む我々)は幸せになれるのだろう?」


以下では、天職を見つけるために必要な3つの要素を考えてみます。




①「大切なこと」(価値観)


進路希望を考える際に考えたい要素の1つは「大切なこと」です。言い換えれば、「自身の価値観」と言えるのかもしれません。この要素が抜け落ちると、「好きで、やりたいこと」のはずなのに、その先に違和感が生じるパターンが発生します。例えば、「収入の低さ」や「安定感」はここに直結します。本人の趣味嗜好とは関係のない部分での「在り方」を適切に考えなければいけません。


具体的には、以下の問いに対する答えを改めてじっくり考えることで、自身にとって大切なことを見いだせるのかもしれません。


Q. 「あなたはどう生きていきたいですか?逆に、どのように生きたくないですか?」


答えは人によって違います。例えば、「肉体的にしんどいことはしたくない」「貧乏はいやだ」「直接的に人を喜ばせたい」といった回答が考えられます。ここから、「やりたいこと」を考えていくアプローチは非常に重要だと感じます。


私を例に挙げると、私は元来「目立ちたがり屋」で、自己顕示欲の強い人間でした。よって、「承認欲求が強い」というのは、否定できない要素だと思います。一方で、私は中学生にときに曽祖父を亡くしたのですが、その曽祖父の死後、あっという間に遺品整理が進み、彼がいた形跡がまもなく無くなったのに触れた際、何とも言えない「諸行無常」を感じました。そのときから「自身の人生では、後世に何かしらの影響力を残したい」と考えるようになりました。これらが私の土台を築いている価値観の大きな部分だと考えます。これらを満たせる職業を考えた際には、「教師」という仕事はかなり適性が高い職業のように思えます(というか、信じています)。




②「好きなこと」(関心)

進路志望を考える際に、押さえておきたいポイントの2つ目は「好きなこと」です。言い換えれば「関心」と言えるでしょう。最もオーソドックスなアプローチのように思えますが、敢えて一度、再考してみましょう。進路希望を考える際の「好き」はどのように捉えればよいのでしょうか。


本書で語られた「好き」は、「お金を支払ってでも学びたいと思える内容」であると位置づけています。重要な要素としては、「専門性」に置き換えられる点です。例えば、生徒に「何が好き?」と単純に聞けば「寝ることが好き」というケースも想定されます。しかし、それは「深めたい」という意味での「好き」ではなく、単純な快楽的な「好き」だということを気をつけなければいけません。この点を軽視してしまうと、純粋な回答により明後日の方向へと遭難確定です。(「寝ること」「綺麗な女性」「ゲーム」「アニメ」など)


よって、尋ねる際には以下のような形式が好ましいように思えます。

Q.「あなたがお金や時間を払ってでも向き合いたいことはどんなことですか?」

こう聞くと、案外なかったりするのかもしれません。パッと浮かばなければ、消去法で考える必要があるのかもしれませんが。


若干、話は逸れるかもしれませんが、大学時代の友人との会話を思い出しました。飲み会でちょっとした議論が起こります。私は以下のような主張を行いました。「好きなものを、その理由を分析的に考え、言語化することを通じて、本人の趣味嗜好を捉え直すことで、改めてより多くの『好きなもの』と出会えるのではないだろう。だから、好きなものについて言語化することは重要である!」一方で、友人は次のようなことを言いました。「『好きなものは好き』というか、あくまでも直感だから、その理由を考えても、あくまで取ってつけたようなものであり、それは因果関係にはなりえない。だから、それらの要素を持ち合わせた同類のモノを並べられても、結局は何かしらの別の理由が湧いて出てきて選択されない。だから、好きなものの理由を考えるのは、本質的には意味がない。」


この話を読まれて、あなたはどちらに共感しますか?今の私は完全に、友人の話が刺さっています。確かに、「好きなもの」の共通項を分析することで、別の進路先にすり替えさせるアプローチも可能なのかもしれません。ただ、本質的には「好きだから好き」という要素も無視してはいけないのかもしれませんね。如何にせよ、「関心」は重要なファクターになり得るということを強調しておきます。




③「得意なこと」(適性)



3つ目の要素は「得意なこと」です。言い換えれば「適性」でしょう。高校生ともなれば、ある程度自身の適性に対して気付いている場合が多いです、特に負の方向については。しかし、改めて、①や②で挙げたような「価値観」や「関心」とは切り離して、自身の「適性」について考え直すことが必要なのかもしれません。本書では、「得意なこと」はピンと来づらいかもしれないが、「他人がやっていて焦れったく感じる場合を想像しましょう」ということが挙げられていたりしました。このような場面を分析的に考えることで、自身の適性を再発見できるかもしれません。


尋ねるとしたら、以下のような形です。

Q.「あなたが他人と比較し得意なことはなんですか?また、他人が困難をしているのを見て違和感を感じたことはどんなことですか?」


この要素については、若干難しさを感じました。というのも、進路希望が見つからない生徒をイメージしたときに、彼らが「得意なことなんてありません。」と言いそうだからです。(実際尋ねてみると、案外サラッと答えるのかもしれませんけどね。)この要素については、「高校生活の中で、身につけたいと思うことでもいい!逆に、卒業時に『得意になった』と言えるような取組を併せて書いてくれたら、何を書いてもいいよ!」と言ってあげるべきなのかもしれません。逆に、生徒が「得意にすべき要素」を見抜き、行事や部活でちょうどよい経験をさせてあげるべきなのかもしれません(コミュニケーション能力・タスク管理・デザイン・企画・リーダーシップなど)。




共通部分に「天職」がある!

上記の3つのポイント、「大切なこと」「好きなこと」「得意なこと」の重なり合った部分の職業を考えたときに、その個人にあった天職があることになります。一方で、実際にはそんな都合の良い仕事は、あまり世間になかったりもします。結局の所、本当の「天職」を求めた際には、自身で仕事を生み出す他ないのかもしれません。


しかし、「結局は起業するしかないよ!」という結論で投げ出したいのではなく、あくまでも重要なのは、「これらの要素を完全に見落とした進路選択をすると、どこかしらで志望を大きく変える可能性がある」ということです。前もって、上記の内容については、個人面談なり何なりで確認をしてあげてもいいのかもしれません。特に、進路希望が全く定まらない生徒に対しては。




まとめと本音


以前まとめた「絶望に強い生き方」でも説明したように、人生において希望をもたない人間はとても脆弱であるようなので、進路希望といった強い意志は早めに見つけさせておきたい要素だったりします。


一方で、実際に「進路志望を考えてきなさい」で決めてくることができる生徒は多くないです。実際に困難となる原因の多くは「好きなこと」だけで仕事を考えようとするからではないでしょうか。子どもが好きなA君は『保育士』を仕事にすることができるのかもしれませんが、寝るのが好きなB君は『睡眠』を仕事にすることができるのでしょうか。進路を選択する際に考慮しなけれならない3要素のうちの何かが欠落している可能性を考え、3つの要素を整理し、一緒に組み合わせを考えないと、苦手な生徒は中々進路を選択することはできないのかもしれません。


私は塾講師のアルバイトから考えれば、生徒と呼ばれる人と12年間関わせてもらったのですが、実際、その生徒たちの現在をほとんど把握できていません。そういう点で、大人になったときに同窓会に呼んでもらえる機会って、答え合わせ的な意味では、超絶大切なんじゃないのかな?と思ったりします。同窓会に呼ばれるような関係性を作ることは大切なのかも、、、と思うと、教員にとって人望は極めて重要だと改めて感じました。笑


2021年6月20日日曜日

キチカワ的 「文化祭」VS「担任」

 今回の記事では、文化祭で企画・運営する生徒に対してどう関わっていくべきなのかの私見をまとめます。


行事は重要?負担過多?


私は学生時代より、行事が大好きな人間でした。基本的に何でもかんでも請け負いたい体質で、代表に手を挙げては、リーダシップの至らなさで、今思えば周りに多大な迷惑をかけていたと思います。というのも、当時の考え方は以下のようなものでした。


「文化祭という『THE 青春』らしいものに関われるのは人生において数回だけ!残りの人生で後悔しない形で参加したい!」


今となっては、高校で教員をしているので、立場こそ違えど、人生で毎年のように文化祭を経験しているので「何じゃそりゃ」という感じですが。兎にも角にも、私は割と行事が大好きな類の人間です。日々が忙しなく進行していき、スケジュールがギチギチに詰まっている感覚と本番の達成感が格別です。また、人間の意外な一面が垣間見えるのも好きですし、「スターになった!」と勘違いしてもギリギリ許されちゃうような空気感がたまりません。


一方で、教員には行事が嫌いな人達も少なからずいますよね。「自分は勉強を教えるために教師になったわけで、生徒の関係性の悪化や諸手続き等、本来の仕事ではない!」というのが主な理由みたいです。正直、滅茶苦茶理解できます。特に、勤務時間を大きく超えても準備をしてくださっている生徒会担当の先生や、人間関係に頭を悩まれている担任の先生方に対しては、思わず「確かに現行の行事って『本来の教育的目的を考えれば、過剰な企画』だよなぁ」とも思います。


私は単純に行事が好きなので、積極的に関わってきましたが、その中で気づいた「上手な運営方法」をまとめながら、そこで生まれるメリットを改めて整理して考えてみたいと思います。


余談ですが、当時お世話になっていた担任の先生に「どうして教員になったのですか?」と改めて尋ねた事があるんですが、その際に彼は「行事が楽しくてね!」とおっしゃっていたのを覚えています。




学年によって関わり方を変えるべき


文化祭への関わり方は、文化祭を経験した回数が大きく影響すると考えます。


まず、1年生は初めての文化祭です。確かに、生徒の中には中学校までに文化祭を経験しているのですが、高校やその学校の文化祭とのチューニングができていません。また、基本的には関係性がある程度出来上がった中学3年生の頃の文化祭のイメージを引用するため、新たな人間関係を考慮しきれていない状況で企画を進めていくことになります。


そして、2年生と3年生でも位置づけが違います。よって、各学年での声掛け等も異なると思います。それぞれの学年をピックアップして、現在の私なりの暫定的結論を整理してみます。



1年生「スゲーことしてみよう!」


1年生は初めての文化祭。中学校での体験を基にやりたいことを主張する生徒もいると思いますが、高校の文化祭とのチューニングが出来ていないケースも多いと思います。そのままさせてしまうと、うまくハマることもあるかもしれませんが、黒歴史にもなりかねません。担任の力でしっかりとチューニングさせて上げる必要があると思います


基本的には、1年生の文化祭においても、「様子見」で終わらず、しっかりと成功体験を感じさせたいと考えています。一方で、まだ微妙に人間関係やスター性を見いだせていない状況だったりもします。よって、基本的には教員主導でレールを引き、その上を走らせて達成感を感じさせる工夫が良いと考えます。


①1年間掛けて、文化祭の企画のアイデアをじっくり寝かせて考える

②入学当初から生徒との関係性をうまく構築し、さらに土台の種を仕込む(うまくいくビジョンを刷り込む)

③棄却されてもいいので、企画の骨格として、担任案を提示する


1年生の文化祭のゴールは、やはり「今年の1年生はなんか面白かった!」と言ってもらえることだと思います。また、これは最強の強みかもしれませんが、1年生は昨年の3年生の発表を直接的に知らない場合が多いので、案外うまく行ったアイデアを吹き込んでも「あれは先輩のパクリじゃん!」になりづらいだけでなく、固まったイメージを持たないので独自のアレンジを加えて実行します。ぶっちゃけ、前年の3年生の発表をうまくアレンジしたものを軸に、教員の方できっちりレールを敷き、成功体験を収めさせ、それを運営する中でチームワークを構築するのが最もうまくいくプランな気がします。


イメージとしては、「教員が敷いたレールに、気づかないうちに乗せてしまう」という運営方針がうまくいくような気がします。


逆に、個人的に「危ないな、、、」と思う運営方法は、1年生に対して企画を丸投げしてしまうことです。上述もしましたが、まず人間関係がきっちり構築できていないので不和が起こりやすい状況です。更に、リーダーシップを発揮する生徒は、その高校での文化祭の経験がないために中学校時代の成功体験を基に進めていきますが、他の中学校出身の生徒との共通認識の差も、無意識に関係性を悪化させる可能性があります。また、また、1年生に対してクラスの司会進行を振るのはリスクが高いと考えています。というのも、そもそも生徒間の関係性が弱い+高校の文化祭の雰囲気がわかっていない という点から、提案も難しいですし、その提案が成功するのも難しいと思います。1学年で失敗をしてしまうと、2学年以降の行事への印象に関わってくるため、ある程度の成功が求められると考えています。仮に失敗したとしても「先生が言いだした企画だったからごめんね!」とヘイトを集める余地を残しておくべきだと思います。


もちろん、「生徒が作り上げるからこそ価値がある」という主張もごもっともだと思います。ただ、企画のプロットこそ教員の方で提案しても、十分生徒が取り組む余地は残っていますし、1年生の行事の位置づけは「企画力」というよりかは「コミュニケーション力」の育成だと思うので、教師の手のひらの上で関係性を構築させていく方が成功しやすいのでは?と思います。



2年生「仕切り方をこうしてみよう!」


2年生は2度目の文化祭。前年とは違い、学校での立ち位置も割と固まってきています。リーダーシップを発揮できる人間が台頭し、ある程度グループを固く構成されている中での企画運営になります。2年生の段階で起こるトラブルとして、グループ間でやりたいことが一致しなかった際の摩擦が挙げられます。


基本的に私は、2年生の文化祭では、「リーダーの育成」を中心に考えます。


2年生ともなると、生徒が高校の特色とすり合わせが出来た状態での企画を提案出来るようになっていますし、クラスの個々の性格についても、ある程度理解できてきています。故に生徒に対して、議論をする時間を設けることが増えてきますが、重要なのは、事前に司会進行を考えている生徒に対して「今日の会議ではどのような進め方を考えていますか?」と尋ねることだと思います。


基本的に2年生ともなればクラスの中心人物が企画の検討会議の司会進行をするのですが、経験上、結局はその司会役と仲のいい生徒が内輪のテンションで企画の話を進めてしまい、グループによる発言権の差が大きな不和を導くケースが多いように思われます。よって、急に「〇〇係さん、仕切ってください」という無茶振りを行うのではなく、事前に「この時間は文化祭について会議を行うので、○○係は会議の準備をしてください。」と全体に予告した上で、個人的に「どのように進めるの?その進め方で、意見を言いづらい子の思いは反映されるようになってますか?独りよがりの進行になってない?クラスの全員が達成感を感じられる発表になるように、全員が関われる工夫はありますか?」と綿密に打ち合わせる必要があると思います。


この経験をさせておくことで、「上手な会議の土台」が生徒に植え付けることができるために、以降の行事においても、深刻な不和が起こりづらくなる予防になると思います。また、リーダーシップはある程度、伝染を引き起こし、他の生徒が仕切る際にも勝手に進行のスタイルを踏襲するようにもなります。(個人的に、リーダーシップの育成には「場面設定」ももちろん重要だと思いますが、それ以上に「引き出しの多さ」が重要だと思います。生徒の進行を見守りながら、リーダーの仕切りがうまくいくようにレールを敷き、そのリーダー中心に成功へと収束する形をとってあげるべきだと思います。)



3年生「個人の温度感の違いには気をつけようね!」


3年生は最後の文化祭。2年間を踏まえて、生徒が色んな思いをもって文化祭へと向かっています特に、代表の生徒の思いは熱い場合が多く、成功のためならどんなにしんどくてもやりきるぞ!という熱意が発生しています。一方で考えられるトラブルとしては、その熱量が故の温度差です。中には既に「受験の勉強にシフトしないといけない」と危機感を感じている生徒もいますし、「部活の引退直前!」という生徒もいます。彼らがぶつかると、せっかくの3年間の人間関係に亀裂が入る可能性もあります。


基本的に私は、2年間で「組織づくり」と「リーダシップの育成」を終えているので、教員の方で積極的に関わりに行くのは多干渉だと考えます。よって、3年生に対して行うべきは、事前に全体に対して「温度差が存在している以上、双方が歩み寄る必要がある」と強調することだと考えています。


私は行事が大好き人間なので、「行事も学業も両方とも成功してこそ!」という信条の持ち主なのですが、それはあくまでも行事が好きな人間側の意見にすぎないのであって、別に好きではない人間、特に既に他のことに集中したいと考えている人間にとっては迷惑極まりない発想以外の何物でもありません。生徒は3年間で価値観を築き上げています。進路について真剣に考えた結果、「行事よりも学業」と考えることは悪ではありません。また、部活の引退と関わる生徒もいます。もちろん、「最高の形で行事を迎えたい」と思うのも間違ってはいません。それぞれが熱くなっているからこそ、その前提の温度感の違いを見落としやすくなっているケースがあるので、改めて温度感の違いを強調した上で、「全員で最善の形」を築くことが重要だと考えます。


また、3年生ともなると集大成です。よっぽど私よりも器用に企画運営する生徒がゴロゴロ出てきています。生徒たちが才能を発揮できるように、「他者への理解&妥協点」や「目標への最短ルート」等、生きていく上で学ぶべきエッセンスが詰まっていると思うのですが、どうなんでしょうか、、、



まとめと本音


コロナウイルスのせいで、一時的に行事は中断し、築き上げてきた流れがとどまっている状況があるのは間違いないです。これをきっかけに、踏襲的だった行事を、改めてより理想的なバージョンアップする、よいきっかけなのかもしれません。


もちろん、このバージョンアップについては、教員の働き方改革にも関連します。改めて、行事で期待される教育的な効果を考えた上で、成功事例を踏襲し続け肥大に膨れ上がったモンスターを、改めてスリム化するチャンスだと思います。


行事を上手に活用できる担任でありたいものです。

2021年6月13日日曜日

絶望に強い生徒を育てる 『夜と霧』

今回の記事では、ヴィクトール・E・フランクル著『夜と霧 新版』を基に、「絶望しない心の在り方」について考えてみます。



「アウシュビッツ強制収容所を生き残る心の在り方」


本書は、精神科医の著者が、ユダヤ人という理由でアウシュビッツに強制収容された、自身を含む人々が絶望していく様子を回想した内容。劣悪な環境に置かれた人々の精神的な変化を観察し続けた筆者は、「絶望しやすい人」と「希望を持ち続けられる人」に気づきます。


以下では、本書を通じて、生徒が社会に出ても絶望せずに生きていける、そんな心の在り方の指導を考えてみます。





「外部への期待に依存する人は絶望に耐えられない」


本書では「自分の外側に期待する人は絶望に耐えられない」と挙げられていました。


具体的には、以下のようなエピソードが語られていました。


クリスマスに開放されるという噂が広まったものの、その1週間後に大量の自殺者が出た。「自由にしてもらえる」という期待感が裏切られた途端、絶望してしまい、命を落とす人が急増した。


「自分の力でコントロールできないこと」に期待を抱くと、人は絶望に対して弱くなるようです。「自身の力でコントロールできない」というのは、言い換えれば「他者の意思決定に依存をする」ということ。つまりは、「誰かに好かれたい」とか「誰かから選ばれたい」などが挙げられます。また、「自分は何をしたいのか」ではなく「自分はどうされたいのか」という形で語られる希望は絶望に結びつきやすいとも言えるでしょう。


教育現場に当てはめて考えてみましょう。例を挙げるならば「生徒会長に選ばれたい」という願望。「選ばれる」というのは、他者に依存する形の願望です。どれだけ頑張っても、生徒会長になれるのは1名ですので、全員が達成することは出来ません。



「自身で希望を掴み取ろうと考える人は絶望に強い」


絶望しやすい人がいる一方で、困難な環境でも絶望しづらい人々もいることが本書では挙げられています。筆者もそのうちの一人として挙げられるでしょう。彼は、アウシュビッツに強制収容されている間、「外に出ることが出来たら、このアウシュビッツの中で起きている人間の心理状況についてまとめ上げ、照明の差す壇上で公演を行う」という希望を持ち続けたことで生き残ることが出来たそうです。


自身の「受け身」な希望を抱くのではなく、自身の「成し遂げたい、能動的な行動」を目標に掲げることは、絶望に対して耐性を生むようです。確かに、外部に対する期待は裏切られた場合は多くの可能性を失ってしまいますが、一方で、自身の成し遂げたい行為については、多少の挫折が生じたとしても試行錯誤の一過程に位置づけられるだけであり、別の工夫を行うことで希望の達成に結びつきます。


先程挙げた、生徒会長の例で考えてみましょう。ある生徒が「絶対生徒会長になる!」という希望を打ち明けたとします。この「生徒会長になる」という希望は、言い換えてしまえば「選ばれる」という要素を持っており、これは直接影響を与えることの出来ない外部要素の強い希望です。一方で、この「生徒会長になる」という希望を、「とにかく自分は、この学校をより良くしたい」という希望に置き換えることが出来ていたらどうでしょうか。仮に生徒会長に選ばれなかったとしても、学校を良くする可能性は残されています。


我々教員は、生徒から他者依存の願望を聞いた際には、自然な形で「自身の力で、何を成し遂げたいのか」に置き換えてあげる必要があるのかもしれません。「絶対に〇〇になりたい!」という希望を聞いた際に、そこには「選ばれない」という可能性が残ります。他者に依存する希望については、その先の目的を明らかにし、何のためにその希望を掲げているのかを改めて問う必要があるのかもしれません。



まとめと本音


本書では、「そもそも希望を持たない人間は最初に命を捨てる」と触れられており、改めて進路希望等を聞く際にはその生徒の価値観を慎重に見定めないといけないと感じています。


特に、学力の高くない生徒には学習面での劣等感や挫折感を感じている場合が多く、高校に入学した瞬間から既に勉強に対して絶望感に似たものを抱いている場合が多々あります。また、進学希望を出している生徒に対して進学希望先を尋ねても、よく話を聞いてみると「もう勉強したくないから、就職したい」と簡単に置き換えられてしまうケースが多いように感じています。(さらに言えば、「ではどのような形で働きたいの?」と尋ねても答えられなかったり、はたまた進学が必要な進路希望先を答えたりされて戸惑ってしまうことも多いです。もちろん、絶対に進学しなければいけない、とは考えてはいませんが。)


私は、学習に対する挫折感を抱えた生徒に対して、入り口の段階で「やったら意外と出来るじゃん!」と感じやすい、ディクテーション活動やパラフレーズによる英作文指導を行うことが多いです。しかし、結局このような処方箋的な活動は、あくまでも応急処置に過ぎず、「自己肯定感を高める活動」だけで学力を固めていくのには時間上の制約から限界があると強く感じています。苦手意識を払拭した先に求められるのは、挫折を超えたステージから新たな目標を打ち立て、それに向けて計画的に取り組むことだと痛感しています。


そして、新たな目標を建てさせる際には、「何を成し遂げたら、君は幸せを感じられるの?」と尋ねようと思いました。

2021年6月6日日曜日

『がんばらない戦略』 継続的な学習の環境づくりの工夫

 今回の記事では、『がんばらない戦略 99%のムダな努力を捨てて、大切な1%に集中する方法』を基に、生徒も含め、私たちが「努力」を「努力」と感じず、当たり前のように継続できるための工夫を再考してみます。





「頑張ってはいけない」


私の好きな漫画に「シャーマンキング」という作品があるのですが、その主人公のモットーは「ラクをする(無理しない)」。無理をした形は脆い、というのが終始強調されている作品でした。


時に人間は頑張らないといけないとは思うのですが、それらは基本的に継続しません。システム的に欠損があるためです。その欠損を精神で底上げして実行することは出来ますが、継続させようとすると、安定したコンディションと結果が求められ、バランスを崩せばすぐに崩壊してしまいます。


本書では、初めから「頑張らない」をテーマにしているのですが、「グウタラのダメ人間になってしまおう!」というテーマではなく、「システム的な折損を、精神論で支えるのではなく、継続可能な工夫を加えて、整った環境を作り出そう」という趣旨だと感じました。


以下では、本書より3つのテーマをピックアップし、教育実践に当てはめた場合をご紹介します。





①「取り組む時間の固定」


本書では「火曜日の淑女」というエピソードが紹介されていました。ザックリ概要を紹介します。


毎週火曜日に清掃活動を行う淑女。彼女は活動を火曜日に固定することで、取組が継続している。


我々が何かに取り組む際、最も労力を使うのは「取り掛かるきっかけ」です。一方で、取組をスケジュールのルーティーンに組み込み、基本的な生活のサイクルに取り入れることで継続を可能にする、という工夫です。


実際、私は毎週このブログをまとめていますが、「日曜日の鉄腕ダッシュを見終わったら、PCに向かい合いブログを書く」というのをルールにしています(今週は2時間SPだったので、スタートが1時間後ろにズレ込んでいますが)。スケジュールに固定していることにより、取り掛かる際に、余計な心理的な負担を軽減できているように感じます。また、ルーティーンとなっているため、普段から「今週は何を書こうか」と日々ネタを探しながら生活を過ごせるようになりました。自分の中でリズムを整えることは非常に重要だと感じます。


では、教育実践ではどのように活かせばよいのでしょうか。

一番シンプルなのは、「家庭学習を曜日で固定化すること」です。可能であれば、時間まで固定してしまってもいいかもしれません。実際、週末課題等も年度が中旬まで進むと、提出を忘れる生徒が固定化され、大半の生徒が文句一つ言わず、当たり前のように提出するようになります。よって、課題を出す際に意識したいのは、突発的な課題を避け、継続的なデザインを心がけることです。提出が安定しない生徒に対しては、一緒にスケジュールを立て、日々の過ごし方を固定化することが重要なのかもしれません。(可能であれば、ZoomやMeetをつなげて、クラスの勉強会の時間を計画できると面白いかもしれませんね。)




②「自分ルールで達成感を感じる」


本書では「営業活動を行う男」というエピソードが紹介されていました。ザックリ概要を紹介します。


いくら断られても笑顔で営業活動を続ける男性。彼は「100回断られたら、寿司を食べる」というルールを設定することで、取組が継続している。


我々が努力をやめてしまう理由の一つに、「達成感を感じられない」という事例があります。一方で、自身で「量」「時間」といった「成果」とは別の部分に着目することで、達成感を感じる工夫を設定するのは、有用な方法なのかもしれません。


マラソンを走る際に、「あの電信柱までこのペースで頑張ろう!」と決め、そこまで行けば新たに「あの橋まではこのペースを維持しよう」など、自身の中でのルールを設定することで、小さな達成感を作り上げ、努力が継続することがありますよね。長期的な「成果」は、中間地点で感じ取ることが困難な場合もありますので、常に自分でスモールステップとなる目標を設定し、時にご褒美を設定するなどの工夫が必要になります。

実際に、私は勤務校で「自主課題」を課しているのですが、生徒がその自主課題を15回取り組むごとに「殿堂入り」と称して、その生徒のリクエストしたイラスト+イニシャルを掲示しています。イメージとしては、学生時代によく通っていたつけ麺屋さんの「激辛〇〇倍完食!」の張り紙なのですが、生徒は面白がって、難しい課題をコツコツ取り組むようになりました。実際の成績については、あまり直接的な影響を感じられていないのが本音なのですが、逆に言えば「成果が見えていないにもかかわらず、ある程度量をこなす習慣が身についてきている」ので、ある程度「量」「時間」に対して評価を与えるような場を設定するのは必要なのかもしれません。


では、教育実践ではどのように活かせばよいのでしょうか。

実際、多くの教育活動で実践されている「学習時間調査」というのもこれに該当するのかもしれません。学習の取組の成果は「成績」で判断されるべき部分を、「学習時間」で記録することで、継続を可能にしています。(少なからず、取組の可視化により、多少なりとも実感が生じるはずです。)改めて、このような記録の際には、目標を設定する段階で、自分自身に簡単なご褒美ルーティーンも設定してみると良いのかもしれません。その際、「成果」ではなく、継続することで達成可能な指標である「時間」「回数」「量」をものさしとして活用するように指示すると良いのかもしれませんね。



③「手順の簡素化」


本書では「腕立て伏せをする男」というエピソードが紹介されていました。ザックリ概要を紹介します。


きれいな女性とすれ違うたびに腕立て伏せをする男。彼はモテるために「スポーツジムに通う(会員登録→着替えの準備→移動→着替え→運動→シャワー→帰宅)」という手順を省き、簡素化した「その場で即腕立て伏せ」をすることで取組が継続している。


我々が何かに取り組む際、「実行」の段階までいけば継続できるのですが、最も労力を使うのは「取り掛かるまで」です。そこで、取組の手続きを最大限簡易化ことで継続を可能にする、という工夫です。


実際、単語テストに対して勉強してくれない生徒に悩んでいた時期がありました。生徒に聞くと、「試験範囲をわからない(正確には確認するのが面倒だ)から」という理由が発覚しました。そこで、単語テストのスケジュールを小さく印刷し、単語帳に挟めるサイズにしたところ、生徒は勉強するために単語帳を取り出し、その中に収納されているスケジュールを確認し、そのまま学習するようになりました。授業前の休憩時間に全く勉強していなかった生徒たちが、ある程度学習を始めたときには割と驚きました。


では、教育実践ではどのように活かせばよいのでしょうか。

ザックリ言えば、「勉強の手続きが減る工夫をしてあげること」です。例えば、上記のように「スケジュールを確認する」という手間を省くために、スケジュールは教材とセットで管理できるようなデザインにする(書き込んだり挟み込めるようにする)。また、参照してほしい参考書のページは記載しておく(最近気づいたのですが、しばしば無神経に「参考書で確認しなさいね」と指示をしていたのですが、よく考えればどの辺りを調べればよいのかわからない生徒が多いようです。ある程度の知識や専門用語の導入がないと、(少なくとも私の勤務校の)生徒は自身で調べてまとめる経験が乏しく実行に移せないようです)。兎にも角にも、内容以上に、課題の丁寧なデザインを意識することが「継続」のための秘訣のようです




まとめと本音


最近、自分の授業実践に対して限界を感じています。というのも、「授業内」の効率化に対してはある程度極まってきており、根本的なデザインを変えない限り劇的な変化が望めないような気がしています

Googleは「結果を10倍にする方法を考える」というのをモットーにしているそうですが、10倍を生み出そうとすると、多少の努力ではどうしようもなく、根本的なシステムの変更が求められます。「んなもの、あるわけないじゃないか」と言われればそこまでなのですが、やってみないとわからないじゃない?と思い、2割UPではなく、絶えず1000%増を意識して取り組んでいます。

そんな中、「とりあえず、授業中の変化には限界を迎えているので、ひとまず授業外の時間を活用したい!」と考えた結果、コストパフォーマンスの良い「個人学習のデザイン」を模索している最中です。今回の内容は、ある種、その一環ですよね。自分は管理するだけで、生徒が自主的にパワーアップしてくれるシステムが構築できればなぁ、なんて桃源郷を描いている今日このごろなのでした。