今年一年間、自分の身に起こったことを振り返ってみます。書いているうちに年が明けてしまったので、一部「今年」と「昨年」が混合してしまっているかもしれません。。。
・ 修論を書き上げ、大学院を修了した
この4月、長かったモラトリアムを終えました。大学・大学院の6年間で、いろんな考えを持った人と出会い、世の中の多様さを知り、自分を深めることができたと思います。
昨今の日本では、大学進学が当たり前になりつつある一方で、先進国の中では格差が目立ちます。経済的に余裕がなくとも進学せざるを得ない空気を帯びた時代に、大学の意義とは何なのだろうと考えてしまいます。
1つは資格や専門性を高めることでしょう。夢を叶えるため、また社会で求められる専門的知識を得るため、もしくは直接的に役に立たなくとも巡り巡って伸び代となるような教養を蓄えるため、大学は勉強するためにある。これは当然、主たる目的でしょう。
最近感じるのは2つ目の理由、人との出会いです。中高時代の出会いはクラス・学校・部活といった枠組みの中で行われます。多分、一方的な知り合いを考慮して300人くらいでしょうか。それらに比べると大学での出会いは圧倒的に自由であり、自ら動けば人脈は簡単に広げられます。また、母数が多く、ある程度同じ趣向を持つ人間が集まるので、非常に動きやすい。知り合った人数は1,000人を超えるかもしれません。一方で、社会に出ると、業種にもよりますが、基本的に人の入れ替わりはそこまで多くなく、しかも仕事という制約上、友人という付き合い方は少なくなります。理解できない価値観を持つ人、圧倒的に才能に恵まれている人、基本的に同じ価値観を持つが捉え方が異なる人、たくさんの人と出会う中で自分が浮き彫りになり、また目指す方向性に気づく。大学は無数の人が自由な枠組みの中で集まる不思議な空間だったと思います。人と出会うために、やはり大学は面白い場所だと思います。
そんな大学から追い出されるように出てしまったのですが、やはりこの6年間で私は大きく変わったと思います。そして、社会に出てしまった。やはり今年一番大きな変化は大学から出たことでしょう。
昨今の日本では、大学進学が当たり前になりつつある一方で、先進国の中では格差が目立ちます。経済的に余裕がなくとも進学せざるを得ない空気を帯びた時代に、大学の意義とは何なのだろうと考えてしまいます。
1つは資格や専門性を高めることでしょう。夢を叶えるため、また社会で求められる専門的知識を得るため、もしくは直接的に役に立たなくとも巡り巡って伸び代となるような教養を蓄えるため、大学は勉強するためにある。これは当然、主たる目的でしょう。
最近感じるのは2つ目の理由、人との出会いです。中高時代の出会いはクラス・学校・部活といった枠組みの中で行われます。多分、一方的な知り合いを考慮して300人くらいでしょうか。それらに比べると大学での出会いは圧倒的に自由であり、自ら動けば人脈は簡単に広げられます。また、母数が多く、ある程度同じ趣向を持つ人間が集まるので、非常に動きやすい。知り合った人数は1,000人を超えるかもしれません。一方で、社会に出ると、業種にもよりますが、基本的に人の入れ替わりはそこまで多くなく、しかも仕事という制約上、友人という付き合い方は少なくなります。理解できない価値観を持つ人、圧倒的に才能に恵まれている人、基本的に同じ価値観を持つが捉え方が異なる人、たくさんの人と出会う中で自分が浮き彫りになり、また目指す方向性に気づく。大学は無数の人が自由な枠組みの中で集まる不思議な空間だったと思います。人と出会うために、やはり大学は面白い場所だと思います。
そんな大学から追い出されるように出てしまったのですが、やはりこの6年間で私は大きく変わったと思います。そして、社会に出てしまった。やはり今年一番大きな変化は大学から出たことでしょう。
・ 定時制高校に携わった
昨年度は母校で非常勤講師を経験し、「教師側」の感覚を知ることができました。しかし、今年は母校とは様子が少し様子の違う定時制高校で一年を過ごしました。
赴任した4月当初、周りの先生方からは「学はあるみたいだけど、それだけではやっていけない」と言われ、覚悟していました。が、実際に蓋を開ければ、割とうまくやっていけていると思います。気づきと反省点をまとめます。
気づきです。従来の定時制高校のイメージは「経済的な事情から、働きながらも高校卒業の資格を手にいれる場所」だったのですが、私が現在定時制に対して持つイメージは「全日制の学校に馴染めないという感覚を持った生徒が来る場所」です。教師になる人間は往々にして、学校が大好きだったという少数派という認識ですが、その真逆の生徒が集まっているわけですから、非常に刺激的で楽しい毎日を過ごしています。定時制の生徒の面白いところは、単なる学校嫌いではないところです。学校嫌いならとっくにやめているはずです。それなのに、学校に毎日通っている。しかし、全日制を選べなかった。その理由は個人個人によって違います。それをすくい上げ、彼らのニーズに応える。非常に面白い。授業の発信源は常に生徒である、そういうことを痛感させられた9ヶ月間でした。彼らのために何をしてあげられるか、また何を教えられるか、残りの3ヶ月、しっかりと考えたいと思います。ひとまず、今年私が考えたニーズを箇条書きにまとめます。以下のことは、向こう数十年にわたる教員生活において、常に胸に刻みつけたいことです。
赴任した4月当初、周りの先生方からは「学はあるみたいだけど、それだけではやっていけない」と言われ、覚悟していました。が、実際に蓋を開ければ、割とうまくやっていけていると思います。気づきと反省点をまとめます。
気づきです。従来の定時制高校のイメージは「経済的な事情から、働きながらも高校卒業の資格を手にいれる場所」だったのですが、私が現在定時制に対して持つイメージは「全日制の学校に馴染めないという感覚を持った生徒が来る場所」です。教師になる人間は往々にして、学校が大好きだったという少数派という認識ですが、その真逆の生徒が集まっているわけですから、非常に刺激的で楽しい毎日を過ごしています。定時制の生徒の面白いところは、単なる学校嫌いではないところです。学校嫌いならとっくにやめているはずです。それなのに、学校に毎日通っている。しかし、全日制を選べなかった。その理由は個人個人によって違います。それをすくい上げ、彼らのニーズに応える。非常に面白い。授業の発信源は常に生徒である、そういうことを痛感させられた9ヶ月間でした。彼らのために何をしてあげられるか、また何を教えられるか、残りの3ヶ月、しっかりと考えたいと思います。ひとまず、今年私が考えたニーズを箇条書きにまとめます。以下のことは、向こう数十年にわたる教員生活において、常に胸に刻みつけたいことです。
Ø 小中での失敗を払拭し、自信をつけ、社会に送り出すステップ
Ø 小中で身につけられなかったスキルを、社会と密接な距離間で気付かせ、身につけさせる
反省点です。完全に学問的な側面を疎かにしてしまったと猛省しています。というのも、私は「大学」のために英語を勉強してきました。しかし、「英語を使う」ために英語を勉強した経験がほとんどないのです。結果、大学受験に結びつかない英語学習に疎く、教科書を無難にこなすような授業が少なくなかったです。もちろん、常に裏テーマとして「生徒が自信をつけるような授業展開」を意識していたのですが、それは英語の熟達度というよりもあくまで問題を解くといった側面であり、もう少し私が努力しなければいけなかったと反省しております。教授法とか表面上なことではなく、しっかりと英語を勉強していかねば。
・ 教員採用試験に合格した
昨年、不合格だった採用試験に合格することができました。正直、やっとの思いです。昨年不合格だった理由が自分の中でイマイチ不透明だったのですが、今年の合格に関してもイマイチしっくりきていません。とはいえ、今年の上半期は非常にナイーブな期間でした。人生で挫折はある程度味わってきましたが、1年にわたって苦しむといった経験はありませんでした。何をするにせよ「私は不合格だった」というレッテルが自分の中で巡っていました。そんなこと気にしていても仕方ないのはわかっていても。その苦しみから解放されたのは何より嬉しいことだったと思います。しかし、合格したからいい教師としての素質が認められたわけではなく、スタートラインに立っただけです。本番はこれからです。来年度に向けて、少しずつ準備を整えていこうと思います。
・ 少し寂しくなる 笑
大学院を出るということとかなり重なりますが、大学時代の友人たちと会う機会がメッキリ減りました。常に地元にいた人間からすると、どんどん人がいなくなる感覚に襲われますが、今年は特にそれを感じました。でもまぁ、生きてるとそんなものでしょう。ひとまず「俺たちは同じ空の下で繋がってるんだ」なんて、思ってもいないことを吐き捨てながら、今後の出会いも大切にしていきたいと思います。
一年間、お世話になりました。
2016年も何卒よろしくお願いします。
2016年も何卒よろしくお願いします。
りょーちんや佐藤さんたちとの院生室でだらだらと英語教育などについて話したことが、今思えばすごく貴重な時間でしたね。
返信削除間違えました。院生室で英語教育について話す時間よりも、麻雀したりマリカーした時間が確実に多かったことが、今思えばすごくクソでしたね。
面白さは冗長性によって生じるように、しばしば「人間的魅力」というものは一見無駄なような時間によって生まれるものなのです。すなわち、あの腐敗した時間は我々の魅力を醸成するために必要な時間だったのです。
返信削除本質を無視して、とりあえず口先だけで立ち回れるようになったのは、院での大きな収穫ですわ。
面白さは冗長性によって生じるように、しばしば「人間的魅力」というものは一見無駄なような時間によって生まれるものなのです。すなわち、あの腐敗した時間は我々の魅力を醸成するために必要な時間だったのです。
返信削除本質を無視して、とりあえず口先だけで立ち回れるようになったのは、院での大きな収穫ですわ。