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2013年3月30日土曜日

ディベートでコミュニケーション力は伸びない -齋藤孝『コミュニケーション力』-

齋藤孝 『コミュニケーション力』を読んで

 しばしば、「最近の子どもは、コミュニケーション力が低い」と耳にします。若者の間では、こういた症状を「コミュ障」(コミュニケーション障害の略)と言い、聞かない日がないくらいです。
 一方で、コミュニケーションというものは一体何なのでしょうか。学習指導要領 英語科の目標にも「コミュニケーション能力の育成」が掲げられていますが、きちんと把握できている方は多いのかは疑問です。以下では 斎藤孝 『コミュニケーション力』でのコミュニケーションに対しての考え方を紹介したいと思います。

コミュニケーションとは「意味」と「感情」のやりとりである

しばしば、口にしてしまう「コミュニケーション」は何を指す言葉なのか。goo辞書で検索する

1.社会生活を営む人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと。
 動物どうしの間で行われる、身振りや音声などによる情報伝達。

と出てきます。我々が話すものは前者でしょう。端的に言ってしまえば「意味や感情をやりとりする行為」です。やりとりですので、一方的なものはコミュニケーションとは呼べません。つまり、テレビを見たり、ブログを読むのはコミュニケーションに当たりません。

 ここで考えたいのは、コミュニケーションでやりとりされるのは、主に「意味」と「感情」であることです。この2つの要素を押さえなくては、コミュニケーションを捉えることは出来ないません。

 「意味」はコミュニケーションで伝えられる中身、内容がそれに当たります。相手に伝えるべきメッセージ、情報であり、具体的には、会議の日時や場所、仕事上の契約、顧客が要求している事柄等です。コミュニケーションの上で、これらは正確に伝えられなければなりません。「意味」が保証されているコミュニケーションは、伝えるべき情報がきちんと表現されているやりとり、ということになります。

 一方で、「感情」という面はどうでしょうか。しばしば、私たちの身の回りのコミュニケーションでは「意味」にばかり重きをおいて、感情のやりとりを忘れてしまっているようです。情報交換=コミュニケーションには、常に感情のやりとりが含まれていることを忘れてはいけません。「感情」が欠けたやりとりは無味乾燥なやりとりです。例えば、全くの笑顔がないコンビニの店員さんとのやりとりを挙げます。このやりとりでは「意味」の要素、「お釣りは○○になります」等が保証されていれば、お店の運営上、全く問題はないです。しかしながら、全くの感情が介在しないこのやりとりはコミュニケーションとは呼べないでしょう。このように、互いに情報をやりとりしていても、感情のやりとりを行わなければ、円滑なコミュニケーションには成り得ないのです。

 では、大事な仕事で何かトラブルが発生した時、「コミュニケーションを事前にとるべきであった」ということばは何を意味するのでしょうか。「意味」の面では、細やかな状況説明をし、共通認識を増やし、行き違いを無くす必要があったことを意味するでしょう。もう一方で、「感情」の方では、感情的にも共感できる部分を増やし、少々行き違いがあっても修復できる信頼関係を築く必要があったことを意味するでしょう。

 話を英語科に戻してみます。本の中での「コミュニケーション力」と英語科の学習指導要領の「コミュニケーション能力」を混合してはいけないですが、英語科の目標で触れられている「コミュニケーション能力の育成」を考えてみると、どうしても情報の伝達、「意味」の面ばかりに注目してしまいがちになってしまい、「感情」の方はないがしろになりがちではないでしょうか。「この構文はこのような意味を示します。では、使えるようになりましょう」では、「感情」という側面があらわれることはありません。我々のコミュニケーションは、常に「意味」と「感情」のやりとりであり、どちらかがかければ、上手なコミュニケーションとは思えません。その2つの要素を想定した英語の運用練習を行う必要があるのではないでしょうか。

 残念ながら、私は勉強不足なので、感情のやりとりの具体的な指導方法は見つかりません。しかしながら、「母語では感情のやりとりができている。内容さえ伝える能力さえ備えれば、あとはその内容に、生徒が勝手に「感情」をのせてくれる」と考えるのは、どうでしょうか。母語でも感情のやりとりができていない生徒は多いように思われます。練習を繰り返さなければ、本番では出来ないと考えます。「6年間も勉強しておいて、全く英語が喋れない」原因は様々なところにあると思いますが、実際のコミュニケーションでの運用を想定できていないから、言い換えると「感情のやりとり」の練習が全くできていないため、意味を伝えられてもコミュニケーションに踏み出せないのではないでしょうか。

ディベートではコミュニケーション力を育成できない?

「コミュニケーション力を鍛えさせるために、ディベート形式で討論をさせる」

 学校教育の中で、妥当な意見として採用されているのではないでしょうか。立場を2分し、お互いの主張を言い合う。そのやりとりの中で、相手の弱点を突き、追い込む。論理性の上で、揚げ足を取り合う。相手の感情をくみ取ることは基本的にはない。

 ディベートで論理力を養う、ということには同意です。ディベートでは論理性が重視されます。論理に乗っ取らない発言は全く相手にされません。ディベートで活躍するには、論理力を身につけるより他はありません。しかし、コミュニケーション力、となるとどうでしょか。上で紹介したとおり、ディベートでは基本的に「感情」を介在しないため、実際のコミュニケーションとは異なります。

 ここでは、より明確に、ディベートがコミュニケーション力を保証できない理由を2点挙げます。

理由1 揚げ足取りの形式は上手なコミュニケーションではありえない

ディベートは通常、勝敗が存在します。ディベートで勝利するためには、論理の上で、相手の本当に言いたいこととは異なる別の弱点を攻めたて、論点をごまかしたりすりかえたりしなければなりません。果たして、これらが実際のコミュニケーションで活用できる力なのでしょうか。実際のコミュニケーションの中で、相手の言いたいことを捉える努力をせずに、あら探しをするとどうなるでしょうか。
 ディベートでは、高い論理性を身につけられるかもしれませんが、それが一概にコミュニケーションにつながるとは言いがたいと考えます。

理由2 実際のコミュニケーションでは自分の価値観をもとにやり取りが行われる

ディベート形式の討論では、多くの場合、立場を変えながら練習を行います。賛否は、ディベートを進行する人に決められてしまうことがほとんどです。双方の立場をより深く理解することは可能かもしれません。
 しかしながら、実際のコミュニケーションでは常に自分の価値判断が状況・発言を左右します。自分にとっての正しさが先行し、その価値判断のもとで、論理が構成されます。ディスカッションでは、立場が割り与えられてしまい、自分が何を大事にしているかという価値判断とは別に論理を構成し、主張しなくてはなりません。自分がつまり、自分の価値観を介在しない発言が強いられます。この点は、実際のコミュニケーションとは大きく違う点です。
 

 複雑に構成されたコミュニケーション力を、何かの活動のみで育成することはできない。ディベートでは論理力を身につけさせることはできますが、他で補わないことにはディベートのみで「コミュニケーション力のある生徒」は育成は出来ないと考えました。
 実際のコミュニケーション力は、言い合いにおいて論理の上で他人を打ち負かすものではなく、

 相手の感情を含めて理解し、次の一歩をお互いに探し合う。そうした真前向きで肯定的な構えが、身につけられるべき基本の構えである。(pp.13)

 ディベートだけではなく、掛け合いでさらなる発見を促せるような、クリエイティブな話し合いの練習を行わないといけないですね。

1 件のコメント:

  1. コミュニケーションという語の定義について、新たな視点を知り、改めて考えることができました。ありがとうございます。

    (1)
    >我々のコミュニケーションは、常に「意味」と「感情」のやりとりであり...
    >英語科の目標で触れられている「コミュニケーション能力の育成」を考えてみると、どうしても情報の伝達、「意味」の面ばかりに注目してしまいがちになってしまい、「感情」の方はないがしろになりがち...

     コミュニケーションには情報を伝える側面と感情を伝える側面があるのですね。そう考えると、確かに一見「感情」のコミュニケーションは授業の中で扱われていない気がします。しかし<「感情」を伝える>とはどういうことなのでしょうか。
     まず感情を伝える手段には言葉があります。英語授業でも”I had a great time there”"I'm happy to -" "I was really surprised that"などの表現を教わります。話者のmoodというのも感情であれば(斎藤孝さんの感情の定義にはmoodは入っているのでしょうか?)助動詞や副詞などもしっかり授業で扱われます。
     よって言葉の側面では感情を伝える指導はされていますよね。
     
     一方、(キチカワさんはこっちの意味で<「感情」を伝える>ということを捉えていると思うのですが、)感情は語調や顔、態度などコミュニケーションが行われている“場”に出てくるものです。だからキチカワさんのおっしゃる<「感情のやりとり」の練習>を英語授業の中で英語で行うことは、ものすごく高度なことに思えてしまいます。感情をみんなの前で出す、しかも英語で、となるからです。


    (2)
    >揚げ足取りの形式は上手なコミュニケーションではありえない
    >実際のコミュニケーションでは自分の価値観をもとにやり取りが行われる

    ディベートという到達目標が学習指導要領に大きく取り上げられたのは、松本茂氏の影響です。寺島隆吉『英語教育が亡びるとき』という本があります。寺島先生はその中で、松本氏が指導要領の解説をしているインタビューに対して(容赦なしに)批判しています。その章を読むと、いかにディベートまで生徒の英語力を高めるのが難しいかわかります。(簡単にここで述べておくと、まず松本氏は英語が大変達者で、個人的にはディベート大会で優勝したり、大学でコーチをしたりしていたという背景があります。そして彼は、インタビューから見る限り、いわゆる底辺校・困難校の生徒は視野にいれていません。)

     斎藤先生のご著書でもディベートに関して批判的に捉えられていますが、現場でもディベートというものには慎重になるべきだと私も思います。やるのであれば、その目的は、上記のようにコミュニケーションでなく、論理力というものを鍛えるためであることを教師が理解していなければなりません。また、生徒がディベート内容に精通しており、かつそれを英語で話せるまで段階を踏んでもっていく必要があります。
     ディベートを英語授業でとりいれる意味と必要性を教師は考えなければなりませんね。
     まったく、学習指導要領とは決して鵜呑みにできないものですね。(苦笑)

     この記事でコミュニケーションの定義をまた少し理解できました。ありがとうございます。

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