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2017年3月5日日曜日

卒業式を終えて 2017

 先日、卒業式を終えました。今の学校に来て1年目の私との付き合いなんてのは、所詮1年という短い期間に過ぎないのですが、私の中では大きかったです。 正直なところ、一人一人との思い出を振り返ると日が暮れるので、思い出の中でも今後私が教員生活を続けていく上で忘れたくないことをザックリとまとめておきます。


・ 深みのある授業へ  

日々の授業を進める上で、もちろん「英語力を高めてあげたい」という思いは常に根底にあります。しかし、同時に「英語を必要のない生徒もいるのでは」という葛藤や、さらには「教師と生徒がお互いに形式的な お約束としての授業をこなしているだけなのでは」と思ってしまうこと、これらが全くないというと嘘になると思います。正直なところ、特に高校3年生を迎えると、短期的な進路を決定する上だと英語を必要のない生徒がクラスにいることはレアなケースとは言えないと思うし、そうは言ってもお互いに義務感を感じて最低限を消化している面もあったかもしれません。しかし、それは私の英語観、言ってしまえば教育観の浅さが起因するものに過ぎないように思えます。もちろん、生徒一人一人にはそれぞれの志望があり、それ故に英語の授業に対するニーズは決して一枚岩でないことは承知の上です。ある生徒は「推薦入試のために定期テストの成績が上がるような徹底的なテスト対策の授業」を求めているかもしれないし、「ひとまず卒業のために赤点だけを回避すれば良い」と考えている生徒もいるでしょう。一方で「受験で英語を使うので、しっかりと周辺の知識までしっかりと押さえたい」生徒や「ニーズの異なる生徒とのペア活動に対してストレスを感じるために個人で学習を進めたい生徒」もいるでしょう。そのような多様な生徒が混在する教室の中で、絶対的に正しい授業スタイルはないのだと思います。が、少なくとも「この授業を受けたら利益になる」と思えるような、幅広く、さらには奥深い面白さを提供しなければいけないのだろうと痛感しています。もちろん、それらが結果に繋がる必要があるということは言わずもがなですが。そのためには、私の教育観を更に深め、英語観も深めて行く必要があるのでしょう。今の私は幸いにも若く、生徒と年齢が近いこともあって、小手先の面白さで生徒がついてきてくれている部分が大きいと思います。ただし、この状態にあぐらを掻いていては、何よりも生徒に申し訳ない。日々、自己研鑽を続けていかないといけないと痛感させられました。生徒からの「ありがとう」という言葉は確かに嬉しかったのだけれど、私の内心では「もっと何かしてあげられたのでは」と思わざるを得ません。この気持ちを忘れることなく、深みのある授業を目指して頑張ります。

・ 部活動に関して  

正直なところ、今回送り出した3年生には「申し訳ない」という気持ちで一杯です。前顧問が転勤し、代わりに全くの専門知識も経験もない私が顧問になったことに関しては、誰かが何かをできたわけではない、言わば仕方がないことでした。ただ「そんなこちら側の事情は、生徒が被害を被る理由にはならないのではないか」、「せめて前顧問がいたときと比べてできる限り不自由さを感じさせない努力は必要なのではないか」という想いがあり、初めは強い義務感を常に感じていました。ですが、義務感ばかりだったのは初めのうちだけで、ボロボロに頑張る姿を見ている中で、「力になってあげたい」と心の底から思うようになるのにはそう時間はかからなかったように記憶しています。それ故に私に専門性も運動経験もないことは本当に悔やまれました。この未熟さは、例え私が全力で専門書を読み上げたところで、コートの外から眺めているに過ぎない以上、決してなくなることはないと思います。そういう点では、私が今の部活の顧問になっている以上、私は申し訳なさを感じ続けるのでしょうが、特に今回の3年生に関しては最後の最後に支えとなっていたものが急に無くなってしまった、不用意な不安感を覚えたのではないだろうか、と本当に申し訳なく思っています(もちろん、3年生だけに思っていることではないのですが)。おそらく私もそのうち、部活の顧問として慣れていき、いろいろなことを経験していく中で、自分の理想の形を持つようになると思います。その大きな原型を、卒業生に見せてもらったと思っています。なので、少し綺麗にまとめるならば、部活の卒業生に対して言わなければならないことは「ごめんなさい」なのだけれど、言いたいことは「ありがとう」なのだと思います。実際のところ、部活の卒業生との関わりは引退までの数ヶ月に過ぎなかったけれど、私が顧問として携わりたいと思ったのは、決して競技に対する情熱に目覚めた訳でもなければ、部活動の顧問としての実績をあげたいとかそんな打算的な理由ではなく、とにかくボロボロの彼女たちを応援したいという想いだけだったのだと思います。(ユニフォームを含め←)ボロボロな面は至る所で垣間みえていたことは否めないチームではあったけれど、時に賢く、時に狡く、常に強かったあのチームをきっと忘れはしないでしょう。


 最後に、今年卒業を迎えた3年生の皆様、ありがとうございました。

2017年1月3日火曜日

振り返り(2016)



 新年が始まって3日が経過してしまいましたが、簡単に昨年を振り返り、今年に生かしていこうと思います。


   全日制の高校に変わる

 昨年の春まで定時制高校で勤務しておりました。確かに、定時制の高校と全日制の高校の様子は大きく違います。しかし、私の目の前にある光景に限らせてもらえば、その大きな違いは生徒の進路です。
 定時制の高校が持つ大きな役割は「社会に出る準備」だったように思えます。定時制高校は彼らの最終学歴にあたる教育現場です。そこでは、いわゆる「仕上げ」が求められます。就職先もほとんど決定していますから、正直なところ、彼らが多少英語を使えるようになったとしても彼らの将来は変わらないのが重い事実でした(今思えば、私の思い込みだったのかもしれません)。その時に、私が見つけた使命はとにかく「自信をつけて社会に出てもらいたい」ということでした。「やればできる」という感覚をもって胸を張って社会に出てこいというメッセージが授業で伝わればいいなぁ、その一心で授業を準備していました。
 一方、今いる全日制の学校では、生徒たちは進学を前提に入学しています。ステップアップをさせ、さらに次の教育へ引き渡す役割を担います。就職を前提とした定時制では「何とかなるんじゃないかな」と思わせる教育が中心でしたが、進学を前提とした現在では「もっとやれるんじゃないかな」「やってみようかな」と思わせる教育に切り替える必要があるようです。現在の私の理想像は、模試の結果を次のモチベーションに変えてもらうという正のループです。言い換えると「何か当たり前のようにやってたことが積み重なって、結果につながってきたし、もう少しやったらどうなるんだろう、やってみよう」という流れが理想形です。
 そのためには、現在大きく分けて3つの課題を抱えています。
Ø  学習への意義付け (何故進学をすべきなのか)
Ø  学習方略への理解 (どのような学習が効果的なのか)
Ø  学習への動機付け (とりあえずやりたくなる第一歩)
 結局、この辺をしっかりと紐解かなければ、「どういう授業が効果的なのか」という方法論に繋げたところで効果が上がらないように思えます。
 目の前の生徒を見ていると「進学するのが当たり前」のような雰囲気はありつつも「勉強するのが当たり前」という雰囲気に欠ける不思議な感覚を覚えます。どうやら、学習習慣が醸成できていないようです。この学習習慣の欠如に起因するのは上記で挙げた「学習意義の欠如(何でやらないといけないのかよくわかっていない)」「学習方略に関する理解不足(どうすればいいのかわからない)」「学習への動機付け(一歩目が出ない)」に収束しそうです。現状で、何をどうすればこの辺りが伝わるのか具体的な像が持てていないので、しばらく考えてみることとします。


   バレーボール部の顧問になる

 正直、全く経験のない競技なので戸惑いと申し訳なさの連続です。でも最近、少しずつ見えてきたことがあります。
Ø  どうしようもないことはどうしようもない
 私はバレーボールに関して完全に素人です。高校生の生徒たちの方がよっぽど玄人ですし、技術的な面は絶対に優位に立てません。確かに数冊の本を読んだりしましたが、この「バレーに関する知識は常に生徒の方が勝っている」という点は常に忘れないようにしなければいけないと思います。
Ø  部活は技術的に伸びればいいだけではない
 確かに競技としての知識は無いのには違いありません。ただし、私の担当をしているのは「バレーボールのチーム」ではあると同時に、「バレーボールの部」である点を留意しなくてはいけません。部活である以上、「ただ強くなればいい」わけではないと信じています(もちろん強い分には一向に構いませんが)。生徒と関わっていて強く感じるのは、私の役割は「バレーボールの指導者」ではなく、「生徒自身が満足し、成長できる環境を整えるサポーター」なのだと思います。前述の通り、私は競技の指導はできません。おそらく、経験を積んでいけばどこかで変な自信をつけるようになるかもしれませんが、おそらく私がいくら経験を積んでもそれはプレーヤーのそれとは異なるものです。ただし、顧問として環境を整えることには全力を注ぐべきだと感じています。実際やっていると、目標の明確化や精神的なサポートなど、意外とまぁそれなりにやれることもあるもんだなぁと感じます。
Ø  何より楽しい
 まぁ偉そうなことを抜かしつつ、本音を言えば部活はとても面白いです。部活ほど生徒の成長を間近で感じられる場所はありません。もちろん、これが専門的な知識のある部活であれば更に思うことはあるのでしょうが、それがなくても楽しさをしっかりと感じています、もちろん申し訳なさこそ感じますが。
 まさか、私自身、ここまで部活に気持ちが惹かれる人種だとは思ってもいませんでした。昨年で一番の発見だったかもしれません。


   忙殺される日々

 正直なところ、私も一人の人間であり聖人ではありません。上記で述べたことばかりの素晴らしい日々を過ごしているわけでもありません。多くは語りませんが、色々と犠牲にしている感もそれなりにあります。まぁ、こんな生活が想定外だったかと言われれば嘘になります。予想通りの多忙さです。さて、今は自らこの道に進んだことに喜びを感じることができていますが、この思いが10年後、20年後、後悔になってないことばかり祈っています。選択肢などないこのまっすぐに延びたレールの先には、幸せがあるのか。今の車窓の風景は悪くないけれど、果たして行き先はどうなのでしょうか。


   イベントに携われる喜び

 もう面倒くさくなってきたので簡潔に書きます。文化祭やら体育祭やらがとにかく楽しい。何やかんや言いつつ、これが目当てで教師になったのかもしれません。祭、最高。


以上です。次に文章を書く気力が起こる日が来るのかどうかはわかりませんが、また機会があれば、色々とまとめていきたいと思います。ちなみに初夢では「英語教育をきちんとしなさい」と教授に怒られ、論文でも書こうかとパソコンと向き合った矢先に、部活や文章の仕事に追われてそれどころではなくなるという、何とも言えないものを見ました。まぁ、何が幸せなのかはよくわかりませんが、今年は「忙しさを言い訳にしない」という抱負のもと、しっかりと頑張りたいと思います。どうぞ宜しくお願いします。

2016年1月16日土曜日

これで1発!「アクティブラーニングって何?」


 昨今、教育界で猛烈なプッシュを受けている、話題の「アクティブラーニング」。まずは、定義を押さえましょう。(産業能率大学キャリア教育推進フォーラム 第8回 (2014年) より引用)


(アクティブラーニングとは)一方向的な知識伝達型講義を聴くという受動的学習を乗り越える意味での、あらゆる能動的な学習のこと。能動的な学習には、書く・話す・発表するなどの活動への関与と、そこで生じる認知プロセスの外化を伴う。


 どうも難しく聞こえてしまうので、超簡単にすると「授業を聞くのだけじゃダメ!生徒の変化が見えるような学び」。もっと簡単に言えば、「講義を聞く以外の活動全てとなります。すごくわかりやすいですね。


 「えっ、講義以外は全部アクティブラーニングなら何で今更? 別にやってたけど。」と思われるかもしれません。アクティブラーニングの捉えづらい理由の1つは、「そもそも具体的な教授法ではない」からです。「アクティブラーニング」と「そうでないラーニング」は「表と裏」の関係ではありません。どちらかといえば「白と黒」の関係です。「今までの授業は黒よりのグレーだったかもしれませんが、今後は白よりにしていきましょう」程度で捉えてもいいと思います。要は「説明を減らして、とりあえず生徒にやらせてみよう、ついでにそれを確認しよう」といった感じです。


 よって、しばしば「課題発見解決学習」とか「協働学習」と混同されがちですが、最も外側で包括する概念が「アクティブラーニング」になります。


 1発でわかってしまいましたね!
 明日から、アクティブラーニングが実践できそうです!
 よかった!


 以上です。
 次回は「アクティブラーニングは何でスゴいの?」をまとめます。






 (ここからは独り言です。是非、読み飛ばしてください。)
 「じゃ、問題集を解くのはアクティブラーニングになるの?」と言われると、私の手元にあるどの書物にも明記はありません。あくまで私見ですが、おそらくアクティブラーニングに含まれると思います。何故なら「授業で得る前では解けなかった問題が解けるようになった」という認知の変化のプロセスが、問題集上で外化されているからです。問題集を解くのは、主体的ではないかもしれませんが一応能動的ですよね、鉛筆は動いてますし。


 ただし、「問題集はアクティブラーニングだよ!」とは、どの本にも書いていないです。何故でしょう。


 ついでに言わせてもらうと、どの本にも「広義では…」と記載されているものの、「狭義」が見当たりません。何故でしょう。


 おそらく、様々な実践例や説明から察すると、アクティブラーニングの狭義(のイメージ?)は次のようになると思います。『アクティブラーニングとは、実生活と結びつきやすい活用を、意義付けするために課題解決と結びつけた上で、しかもそれを生徒間で交流しながらやる学習』、こんな感じでしょうか。率直な感想を述べさせてもらうと、この狭義を忠実に守ろうとすると、多くの教科でシラバス上の単元では相当やりにくい内容が多い気がします。実際、学校で教える内容は「この単元単体では実生活で活用することが極端に少ない」「世間の課題と結びつかない」「個人でやったほうが効率的」なものが多いです。むしろ、この狭義のアクティブラーニングがあてはまる題材のほうが少ない気がします。もちろん、そう考えてしまうのは私の力量と工夫不足なのかもしれませんが。


 そもそも、アクティブラーニングは大学での教授法として出発したそうです。大学では、教室内の学生が多く、教授すべき情報量も圧倒的に多いことから、講義形式が一般的でした。しかし、世間が激しく変化し、知識と世間の距離が生じてきています。さらに知識そのものがググれば済むようになりつつあります。また、大学進学率が大幅に増加し、従来ほど知識のない学生が増えています。このような世の中の変化から、大学での講義形式に活動を加えるという発想でアクティブラーニングは生まれました。
 正直、このアクティブラーニングがどういう過程で大学から高等学校や中学校に移行したのかはイマイチ知りません。しかし、中学校や高等学校では100%講義形式の授業は稀ですから、新しい「アクティブラーニング」という響きに、色々と余計なものがとってついて、もはや別物になっているのかもしれません。さらに、従来から注目を集めている「課題発見解決学習」や「協働学習」と混合され、元の概念から派生した別の何かになっている気がします。



 以上のことから、「アクティブラーニングって何?」と聞かれた際は、「定義によれば講義以外」と答えるよりも「課題発見解決学習と協働学習を合わせて、発表させるやつ」と認識する方がいいのかもしれません


参考文献
『アクティブラーニング入門 (アクティブラーニングが授業と生徒を変える)』 小林昭文
『アクティブラーニングと教授学習パラダイムの転換』 溝上慎一
『すぐわかる! できる! アクティブ・ラーニング』 純, 西川
『現場ですぐに使える アクティブラーニング実践』 小林昭文

2016年1月8日金曜日

脱マインドコントロール教育


 本記事では、「主体性を伸ばす教育」をまとめたものであり、「生徒をマインドコントロールする」という趣旨ではないことを明記しておきます。

 昨今の教育では、生徒に主体性(自主性・自立性)を育成することが求められている。一方で、主体性の逆は「服従」であり、その一例には、信じられないような監禁事件やテロを可能にしてしまう、マインドコントロールが挙げられます。
 マインドコントロールは主体性を奪い、思いのままに操るという人権を大きく侵害した行為です。そんな恐ろしいマインドコントロールの原理は、実のところ、私たちの身の回りにありふれていて、いわゆる「説得力のある人」はその原理を知らない内に用いていることが多いようです。意識してうまく活用すれば、マインドコントロールは人を動かすための効果的な武器になります。が、マインドコントロールは無意識で用いられている場合も多々あり、私たちは気づかない内に生徒を洗脳し、主体性を奪い、彼らの価値観と一致しない行動を強制しているのかもしれません。
 再掲しますが、本記事では「主体性はどのように奪われてしまうのか」という点に着目し、それを逆手に取ることで「どうすれば主体性を伸ばせるのか」を紹介します。あくまでも「主体性を伸ばす」のが目的であり、「生徒をマインドコントロールする」という趣旨ではないことを再度明記しておきます。


主体性を奪う要素1

情報量の欠如・過多


 マインドコントロールするとはいえ、脳に直接操作を加えるわけではなく、その多くは与える情報を操作することによって行います。その情報のカギとなるのは情報量です。先に結論を述べると、与えられる情報量が「極端な量」になればマインドコントロールがかかりやすい状態に陥ります。極端な量について、少なすぎる場合と多すぎる場合について言及していきます
 まずは極端に少すぎる場合です。具体的には監禁状態のような外界との関係を一切遮断した状態がこれに当たります。戦時中の情報操作が当たり前だった日本軍や、時より報道される痛ましい監禁事件などは、外部の情報を極端に制限することにより、与えられた唯一の情報のみを信じるようになります。一般的に見られる「勉強合宿」等は外部からの情報を遮断することで、「勉強することのみが正しい」という状態を作り上げ、生徒を勉強に集中させたりする、いわばマインドコントロールの一例となります。ただし、通常の学校において、生徒は外部と常につながっていることから、情報を制限することは困難です。
 一方で、情報が多すぎる場合もマインドコントロールにかかりやすい状態に陥ります。これは、身の回りに情報が多すぎて、情報処理だけで精一杯になってしまい、主体的に判断することができない状態に陥ることから生じるというものです。現代はメディアの発達から、生徒はテレビやインターネットから無数の情報を浴び取捨選択できていないことが多く、このような場合、生徒は自身の行動の判断をできず、指示がないと何もできないパタンが増えいるようです。メディアだけではなく、親からの過保護や学校以外に塾に通うなども大きな要因を担っています。まとめると、現代は情報が錯綜し取捨選択が困難になり受動的にならざるを得ない、言い換えれば、マインドコントロールされやすい環境が整っているようです。
 人間が最も主体的になる環境は「情報が少ない」場合です(「少なすぎる」とは区別しています)。少ない情報を取捨選択し、最善を考え行動する時、人間は最も主体的になる。長い説明よりも、少ない言葉で簡潔に済ませ、自分で考えさせることが主体性を育成させるためには重要です。


主体性を奪う要素2

疲労とストレス


 通常、他人からマインドコントロールを受けようとすると、自分を守ろうとする判断が生じます。しかし、極度の疲労感や神経の衰弱を伴っている場合はマインドコントロールを受けやすい状態に陥ります。
 人間を疲弊させる要因は多々ありますが、その一つに情報過多があります。1つ目の要素でもありましたが、多すぎる情報はそもそも主体的な判断を難しくするばかりでなく、疲弊させ主体的な判断を妨げてしまいます。押しの強い営業マンのマシンガントークは、客に対し主体的に考える余地を無くし、受動的な購入を促します。よって、「多すぎる情報」というのは極めて洗脳の力をもっているため、主体的な生徒を育成する上で情報を浴びせすぎることは極めて逆効果になります。
 また、精神的なストレスを与える際に極めて有効な方法に「先の見通しを奪う・不穏な見通しを暗示する」ことが挙げられます。人間は予測不能な状態で強いストレスを感じます。一般的に、拷問は肉体的な苦痛以上に、いつ終わるかわからない隔離状態の影響が大きいそうです。未来に対する不安は強いストレスを生み、マインドコントロールに陥りやすい状態を作るようです。学校において、教師は生徒に対し「このままでいくと、君の未来は……」というフレーズを使いがちです。この手の常套句は、レベルの高い不安感と緊張を継続的に感じさせるという点では、極めて有効的なマインドコントロールの手法です。生徒を支配するには極めて有効な方法ではありますが、もしも主体性を育成したいのであれば、脅しじみた言い方を避け、「もっとやりたい」というところで止めて余力を残させることが重要なのかもしれません。
 ブラック企業が成り立っているのも一種のマインドコントロールなのではないでしょうか。長時間の労働が通常になってしまい、慢性的な疲労感を常に覚える。過度の疲労感から、主体性が失われ、マインドコントロールに陥りやすくなる。そして、さらに厳しい労働を断れなくなり、会社をやめる気すら起こらない。そういった負の連鎖が日本企業には蔓延しているのかもしれません。


主体性を奪う要素3

救済の約束


 要素1・2のは、あくまで精神的な抵抗力を奪う下準備にすぎませんでした。マインドコントロールの核心は要素3「救済の約束」にあります。特に、その救済が「信念に対する揺るぎない自信」と「誇大自己の万能感」を伴っていれば、窮地に立った人間にとって依存する他なくなってしまいます。また「救済の約束」はあくまで約束であり、実際に救うかどうかは大きな問題ではない点は、多くの宗教を見るに明らかです。
 特に普遍的な問いは、「救済の約束」において絶大なる力を持ちます。例えば、「人は何のために生きるのか」。誰しもが明確な答えを持たないような問いに対して、世間の価値観の矛盾を指摘し、既存の価値観を暴き立てる—「後悔のないように生きるというが、死後、後悔を感じることはできるのか」。そこに揺らぎない信念と万能感を込めた答えを提示する—「最後の審判が存在するのである」。(私は宗教に疎く、この例に意味は全くありません
 例は壮大になりすぎましたが、身近な例で言うと「このままでは大学に受からないかもしれないけど、勉強したらきっと合格できるよ」といった言葉はこれに該当します。強い自信をもって希望を約束されると、人は従ってしまう性質を持っています。しかし、要素3・4は単体では問題がなく、むしろ人をエンパワーする場合の基本的な要素です。後述する要素5と併用した際にマインドコントロールとしての側面が強く発生します。


主体性を奪う要素4

承認者に対する忠誠心(ラポール)


 人間は群れで生活する社会的動物であり、強い承認欲求を持ちます。そのため、自分を認めてくれた人に対して忠誠を尽くすという習性を持っています。忠誠を尽くすとまでは言わなくても、基本的には裏切り行動を好みません。故に、相手に「認められた」と思わせれば、反発することはおろか、より承認してもらえるよう行動します。
 この要素を考慮すれば、「主体性を育成する上で、教師が生徒を認めるような素振りは控えるべきである」という結論にいたりそうですが、上でも述べた通り要素3・4は単体では問題がなく、むしろ人をエンパワーする場合の基本的な要素であり、後述する要素5と併用した際に問題が発生します。


主体性を奪う要素5

自己決定の場面の欠如


 要素3・4は、人間を教育する上でほぼ必須の要素なのかもしれません。マインドコントロールの場合は、上記の要素に加え、もう一つ大きな要素が関係しています。それは、自分で考え判断する場面を排除し、支配者の決定に従うという「自己決定の場面の欠如」です。
 一般的に、カルトではメンターと呼ばれる先輩信者が、新入信者の相談役となり、些細なこともすべて指示を出すようになります。全ての意思決定を他者に一任する状況を作り、自己判断の余地を奪う。また、個人の持つ考えを尊重する場を一切設けない。このような環境を作ることでマインドコントロールが完成します。カルトのみならず、親に行動の多くを決定されるような子どもも、主体性の無さという点では同じなのかもしれません。
 昨今の学校、特に生徒指導において「生徒に自己決定の場を与える」というフレーズが見られます。上記でも述べたように、昨今の社会の変化はマインドコントロールしやすい状態を作り上げています。そんな時代故に、仮に生徒がついてきていたとしても、生徒が自分で選択し行動を選択するような場面を設けなければ、それはマインドコントロールに過ぎないのかもしれません。自己決定の場は主体性の育成において必須の要素でしょう。


まとめ

 クラスマネージメントと言ってもいろいろな形があります。本記事では、主体性を完全に奪い、服従するパタンであるマインドコントロールという視点から、改めて主体的な生徒の指導について、考えをまとめました。前回の記事で「君主論」から「支配による教育」に関してまとめましたが、支配的な指導と聞くと直ぐに「生徒の主体性がなくなりそう」と考えがちですが、そのあり方は様々であり、上記の点を踏まえれば、主体性の育成も可能なクラスマネージメントが展開できそうです。
 要素1「情報量」と要素2「ストレス」は、時代の変化とともに好ましくない状態になってきており、言い換えれば誰しもマインドコントロールに陥りやすい社会を迎えているのかもしれません。要素3「救済の約束」と要素4「忠誠心」は教師が影響力を持つ上で、非常に重要な要素だと思います。一方で、強い影響力には相当する責任が伴います。無意識の内に「救済の約束」をし、「忠誠心」を築くも、要素5「自己決定の場の欠如」に陥ってしまうと、それは教育という名のマインドコントロールなのかもしれません。その点に気をつけていく必要がありそうです。




参考文献 文藝春秋 『マインド・コントロール』 岡田尊司 著