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2021年4月25日日曜日

清く正しく「生徒に愛を伝えよう」?!

ゲーリー・チャップマンの著書『愛を伝える5つの方法』から、教師として生徒に対して「正しく効果的に愛を伝える方法」について考えてみます



愛を伝える必要性とメリット


心理学者ロバート・B. チャルディーニは「返報性の法則」を提唱し、マーケティングに大きな影響を与えたそうです。


要するに「されたら返したくなる」という人間の心理を用いるという趣旨。この「返報性の法則」は良いことにも悪いことにも適応されるそうです。


今回、特に注目したいのは好意の返報性」。相手に好意を向けられると、こちらも好意で返したくなるという心理です。例えば、初対面であっても笑顔を向けてくれた人には、自然と自分も笑顔で対応しようと思う、このような心理は「好意の返報性」に該当するそうです。


教師をしていると、生徒が想像以上に努力してくれて感動するケースに遭遇します。確かに、その努力は「教師に対しての恩返し」ではないのかもしれませんが、ある程度「やってくれた分には応えたい」と思う生徒も少なからずいるのではないでしょうか。


そこで、今回の記事では、この「好意の返報性」を利用し、「生徒に効果的に、正しい方法で愛情を伝え、生徒を良い方向に導けないか」というのを考えてみます。



生徒に「愛を伝える」ってヤバくない?


昨今、セクハラや不祥事に対する対応策として、年間数回研修会を実施されている学校も多く、このあたりには敏感になってしまいます。もちろん、「生徒に対して恋愛感情を伝えようぜ、げへへ」というつもりは微塵もないです。しかし、むしろ問題視されやすい分野だからこそ、どういう伝え方なら問題にならないのか、どのような伝え方なら効果的に伝わるのかを改めて整理して考えてみたいと思います。




「愛の伝え方」は5種類


アメリカのラジオパーソナリティ、ゲーリー・チャップマンは著書『愛を伝える5つの方法』をまとめていました。この「5つの方法」は様々な場面で紹介されていますが、元々この本はガッツリ恋愛に関する方法を紹介した本なので、今回はその中から「教師から生徒に対して愛情を伝えるときに用いることが可能な方法」を考えていきます



「愛を伝える5つの方法」は以下のとおりです。

①肯定的な言葉
②サービス行為
③贈り物
④クオリティ・タイム
⑤身体的なタッチ

それぞれ考えていきましょう。


①肯定的な言葉


1つ目の「肯定的な言葉」とは、「愛情、称賛、感謝を言葉で表現する」ということ。アドラー心理学等でも、相手を認め尊重する重要さが述べられているように、他者への承認はその関係性を良好にするようです。このレベルであれば、教師と生徒の関係性でも許容されそうです。


・愛情を言葉で表現する例

「私はこの学校が好きだ!」

「私はこのクラスが好きだ!」

※問題に発展しそうなので、個人に対する「愛情の言葉」は避けるべきかもしれません


・称賛を言葉で表現する例

「こんなに丁寧に勉強できてるなんてスゴい!」

「いつも部活に熱心に取り組んでてスゴい!」

※「やればできるじゃん!」的な言葉は、それまでの生き方を暗に否定しているように捉えかねないので、言うべきではない言葉だそうです。同様に「賢いんだから、やったら出来るのに!」といった相手の持って生まれた素質を褒めるのも同様、教育的に効果的ではないというのをどこかで聞きました、ソースは覚えてないのですが。称賛する場合には、生徒の行動に目をつけると良いそうです


・感謝を言葉で表現する例

「いつも熱心に取り組んでくれてありがとう!」

「凄く感動しました!ありがとう!」

本心のない感謝は伝わってしまいますが、1を10にするのは可能なのではないでしょうか。感謝に対するハードルを下げておくことは、生きる上でも重要なように思えます。



②サービス行為


2つ目の「サービス行為」とは、「言葉よりも行動で愛情を示したり受け止めたりする」こと。要は、相手のために何かをしてあげること。もちろん、気づいてもらえないと効果を発揮しないので、気づかれるレベルで行わないといけないのかもしれませんが。

①肯定的な言葉 とぶつかるように思えますが、人が愛情を感じる瞬間には個人差があることから、言葉も重要なのですが、行動を評価する人がいることも意識しなければいけないのでしょう。

教師として、既に我々は日々生徒のために様々なことをしています。一方で、生徒にそれを愛情と認識させるためには、「他の生徒が受ける行為とは異なり、『君たちだからこそ!』の特別感」が重要なのかもしれません。

※個人的な話なので、この段落は読み飛ばしてもらって構いません(笑)
話としては滅茶苦茶わかるのですが、この「サービス行為」については少し配慮を欠くと、周りの先生から風当たりが強くなる恐れがあるので注意がいるのかもしれません。
「特別にジュースを買ってあげる!」「時間をかけて黒板アートを描いてみました!」「行事に主役級に参加する」とか、この辺の「目立つサービス」の効果は大きいかもしれません。が、同僚の先生方から「それはやりすぎでしょう」とか「やらない方が悪い先生と捉えられるからやめてほしい」とか、チクチク言われたりします。実際、私がやってしまいがちなのはこちらで、経験談です。(ベテランがやる分には何も言わないのに酷いと思いません?)笑
一方で、「毎日放課後は教室を掃除してみる」とか「ホームルーム日誌にビッチリコメントを書き込んで返却する」といった「控えめで継続的なサービス行為」は美談として、教員受けは良いのかもしれません。一方で、伝わらない生徒には微塵も伝わらないことも多々あるように思えます。慣れる生徒は慣れますし、継続的な行動が苦手な私には苦行です。笑

よって、教師として望ましい「サービス行為」としては以下のようなものが挙げられるのではないでしょうか。如何せん、「サービス」なので、重要なのは自己満足ではなく特別感だと思いますが

・個人に向けたコメント(日誌・提出物)
・学級通信
・手の込んだ(ように見える)教材準備
・行事のサプライズ演出 ※やりすぎ注意!


③贈り物


3つ目の「贈り物」とは、その通り「愛や好意の象徴として贈り物をする」ことを指します。恋愛では常套手段なのかもしれません。


一方で、公教育でこれをガンガンやると問題に発生します。贈り物の多くには費用が発生します。一部の生徒が露骨に経済的な報酬を得るのはマズいですよね(個人負担も継続的ではないですし、学校から予算が割り当てられるわけでもないですので)。仮に費用が発生しない贈り物を贈ろうとすれば、それ相当の時間が奪われます(これもまた一時的に見れば美談のように思えますが、全く継続的な方法とは思えません)。


よって、②「サービス行為」を超え、③「贈り物」で愛情を表現するのは、教育現場では意識して排除するべきなのかもしれません。別のアプローチで、生徒の心を掴みましょう。(めっちゃやってあげたくなる時はありますが!)百歩譲って、コスパの良い方法を他の教員と共有して実行するのが波風立たずにオススメなのかもしれません




④クオリティ・タイム


4つ目の「クオリティ・タイム」とは「中断や邪魔の入らない上質な時間で愛情を示す」こと。教育現場では「個人面談」等がこれに該当するのでしょう。邪魔の入るという点で三者懇談は含まれないのかもしれません。


個人的には「中断や邪魔の入らない」という点がポイントなように思えます。私も経験上、昼休みや放課後の時間を活用して個人面談を行った経験があるのですが、全体の進行があるので、制限時間を設定して回転率を意識してしまいがちです。もちろん、クラスの生徒数と時間的な制約を考えると仕方のないことなのかもしれませんが、時間を設定してしまうと事務的なニュアンスを帯びてしまいがちで、生徒が愛情を感じるには少し異なったものになってしまうように思えます。よって、業務的な個人面談ピンポイントで行う個人面談の2つの視点が重要なのかもしれません。生徒指導では「指導のタイミングを見図る」的な言葉をよく耳にしますが、ピンポイントで話を聞く場面の設定を行う際には、時間的な制約を設けず、中断や邪魔の入らない状況を築くことが重要なのかもしれません。ただ、時間は有限なので「制約のない個人面談」は「ここぞという時に使う必殺技」として活用したいですね。



⑤身体的なタッチ


5つ目の「身体的なタッチ」「セックスや手を握るなど、身体的な接触を通じて愛情を感じる」こと。


一発OUTです。例え同性の生徒に対する愛情表現だとしても、ボディータッチは避けるべきでしょう。軽いものだとしても、後々大きなトラブルに発展しかねないですし、このスキルを伸ばした先に得るものは多くないように思えます。




まとめと本音


生徒に愛情を伝えるためには、「温かい声掛け」「わかりやすいサービス」「個人面談」の3つなのかもしれません。整理して考えると、改めてシンプルですね。


もちろん、返報性を意識せず、「愛情なんてなくても、教育は行える」のは事実かもしれませんし、「好かれなくても良い先生は良い先生だ」とも思います。


一方で、必須条件ではないにせよ、「愛が深い先生だから悪い先生だ」という事例に出会ったことがありません。伝え方の悪い先生はいるのかもしれませんが。


愛情は注いだ分だけ返ってくると信じなければ、いつかプツンと心が切れてしまいそうになることがあるのが教師という仕事のように思えます。しかし、「そもそも愛情をちゃんと注げているのかな?」と疑問を覚えたときに振り返りたい内容だと思いまとめてみました。


セクハラ、絶対ダメ!




2021年4月18日日曜日

無自覚な「格差の壁」 ー幅広い生徒と接する際に必要な自己覚知ー


今日は「世の中の『成功者』と『そうでない人』の間に存在する無意識の壁」についてのお話(図1)。私は哲学に対する知識は皆無なのですが、どっかの偉い人が「我々は『無意識』に支配されている」と言ったとか言わなかったとか。


無意識に意識を向けなければ、気づかないうちに「差別的な」もしくは「分断的な」価値観で世の中を捉えてしまいそうなので、まとめてみました。







成功者は無意識に見下している?


東洋経済オンライン 「サンデル教授が語る『大卒による無意識の差別』」では、以下のように述べられていました。


能力至上主義の考えの裏には、「成功をしていない、社会的に認められない人は、努力してこなかった責任を負っている」ということになる




上記の図2のように、社会的な成功者は、他者に対して、その差を「努力量」と考える傾向にあるそうです。この(限定的な)成功者の理屈の上では、「成功は誰のもとにも平等にあり、それを手にできないものは怠慢である」となり、成功を手にできなかった者は怠惰のレッテルが貼られることになります。


もちろん、この理論を社会生活で露骨に表現すると不要な敵を増やすので、顕在化する場面は少ないのかもしれないですが、言われてみれば、そのような考え方は存在しているように思えます。私自身、教員として生徒に対して「誰にでも平等にチャンスがあり、その可能性を狭めているのは自身の決定によるものだ。努力により可能性を広げない者に明るい未来はない!」的なことを言っている覚えがあります、ここまで露骨かどうかはさておき。



このような考え方の落とし穴を挙げてみます。


「努力をしないこと」=「悪」という前提条件が刷り込まれている

「成功」は、努力だけでなく環境や運にも左右される

そもそも「成功」は単一の尺度で測るべきでない


まず「成功者は例外なく実力がある」という前提が怪しい。「たまたま恵まれた環境に身を置き、たまたま成功体験を積み重ねることができ、そこにたまたま好機が舞い込み、一時的に成功している、と錯覚しているだけ」なのかもしれません。よって、「成功者」の土台にあるものが「努力」だけと考えるのは、極めて危険な思想になります。社会的な「失敗」のすべてを、「本人の努力不足」とみなし、「好機を自ら逃した破滅願望者」だらけの世の中に生きることになります。


あるいは、自身の「成功」の尺度で「社会的な地位」を規定してしまうことは、非常に偏った解釈で世の中を捉える恐れがあります。昨今の「差別」に対して厳しい意見がぶつけられる社会において、自身の「成功」という尺度だけで生きていくと、無意識のうちに様々な差別的な価値判断を行ってしまうことになりかねません。




「言い訳」は弱者の心の支え?


一方で、哲学者ニーチェは「ルサンチマン」という考え方を説明しています。(私の解釈で言えば)要は、「弱者は強者に対して恨みを覚えている」といったものなのですが、世間で「サクセスストーリー」や「弱者救済の英雄伝」が受け入れられるのも、広くはこの感情が根底にあるからだと考えることができます。


この「ルサンチマン」的な発想を根底に考えると、「社会的な成功者は、いずれ失敗するべきであり、本当の幸福は自身の方に存在していてほしい!」という思想から、成功者に対しての嫌悪感や不平等さの正当化を行います(図3)。




「成功者は本当は不幸である」という願望めいた無意識の価値観が拡張していくと、分断が深まる恐れがあります。


さらに、「弱者のほうが幸せである」という思想を延長していけば、人間は自ら、様々な可能性を破棄していくことに繋がり、無限地獄編に突入していきます。




「無自覚」を「自覚」すべきである


今回の話を通して、「成功者側の思想」にも「弱者の思想」にもヤバさを感じます。ただ、ヤバさを感じられたらそれでいいのかもしれません。大切なのは、「無自覚でどちらかの思想にどっぷり浸かること」=「ヤバい」と自覚することなのかもしれません。正直、私自身、前者の考え方に少し偏っている節があるので文量にもかなりの差が出ました(笑)




まとめと本音


(かなり私の解釈が入っていますが)哲学者のデューイの考え方に沿って言えば、人間の決断・決定は環境的な要因が大きく、直接的に他人を長期間支配することはそもそも教育の原理に相容れない考え方であることから、教育の本質は環境整備である。生徒が進路実現できなかった時、教師として考えるべきは「本人の自覚・勤勉さ」に由来すると結論づけるのではなく、取り巻く環境を整えられなかった周囲の大人たちの責任と捉える必要があるのかもしれません(もちろん、ここまで来ると個人の領域を超えています)。教育現場では、「怠惰」と一蹴するのではなく、とにかく環境を整備することに注力すべきなのかもしれません。


また、(こちらにもかなり私の解釈が入っていますが)マルクスの唯物史観的な見方だと、人間の行動様式は周囲の物質的環境に決定されているため、取り巻く物質的な要素(スマホ・教師・教室・参考書)等が影響した結果、生徒は行動を決定させられているのであって、その物質的な環境さえうまく支配することができれば、生徒はある程度何にでも変容しうるのかもしれません。


教員をやっていると「最終的には本人の努力次第でしょう!」と割り切って何とか自分を許そうとした結果、図2のような思想に陥ってしまいがちな気がします。逆に、「あの生徒を合格させたのは自分のおかげだ!」と驕りたくなるケースもありますが、これらも含め、社会の「成功」というものには、環境や運といった要素が強く影響することを自覚する必要があるのかもしれません。

2021年4月4日日曜日

自由即興会話の活動をより活発にするためには?

      

学習指導要領の改訂のを受け、従来の4技能に「やりとり」という領域が加わりました。


コミュニケーションにおける、一方的な「モノローグ(発表形式)」では特定の目的に対しての産出活動になるため、その目的に対する効果的なアプローチをもとに、方法論的な「型」というレールを走らせるような活動を考案しやすいように感じます。例えば、「プレゼンを作成する」という産出活動には「相手を納得させ、特定の行動を促す」という目的が付随するので、この目的に応じて、先人たちの効率の良い“パターン”に従い、教育現場で段階的に指導・練習させることが比較的容易です。(プレゼンの作成については、以前わたしなりにまとめています。ご参照ください。「プレゼン資料作成の指導3ステップhttp://kichikawaginjiro.blogspot.com/2021/01/blog-post_31.html )


一方で、双方向で行われる「ダイアローグ(対話形式)」では、単に一括にし「『やりとり』を指導する」というのが困難なように感じます。この原因は、もちろん複数の要因を仮説として上げることは可能ですが、その1つに「『やりとり』と一括にしても、そこには明確な目的の存在する場合と、存在しない場合が混在している」ことが挙げられるようです。


今回は、広島大学附属中・高等学校中等教育研究紀要〈第 67 号 2020〉に収録されている久松(2020)中学校2年生が自由即興対話に英語で挑戦してみた : そこで起こっていること(A Challenge to Improvised Conversation in English by 2nd Grade Junior-High School Students: A Quantitative and Qualitative Analysis of the Conversation)」を私なりに掻い摘み、即興による会話をより活性化するために踏むべき工夫を考えてみます。




明確な目的のある「やりとり」


「やりとり」は2つに体分することができ、その1つが「明確な目的のあるやりとり」です。具体的には「交渉・道案内」等が該当します。このやりとりには、踏まえるべき手順をパターン化することができるため、短期的な指導・習得が期待されます。


このような「明確の目的のあるやりとり」の型を増やしていくことで、使用できる表現の型のバリエーションを増やし、転用していくことで、幅広い英語表現の習得が見込まれます。また、ある習得させたい表現や文法事項について、機械的な反復練習ではなく、明確な言語使用の場面設定により実際の運用に近い環境を作るためのロールプレイとしての要素、という側面もあるので、一概に「道案内」とか「自己紹介」といった、極めて限定的な場面での言語使用の練習は一切無駄であると、断言するのは早計なのかもしれません。


ただ一方で、「実際の現実社会において、こんなピンポイントな使用状況に直面することあるのか?」と違和感を覚えることも事実です。その原因として考えられるのが、次に紹介する「明確な目的のないやりとり」の存在なのではないでしょうか。


明確な目的のない「やりとり」


現実世界の言語のやり取り全てに目的が存在するわけではありませんよね。「やりとり」を2つに大きく分けたときの2つ目は「明確な目的のないやりとり」です。友人との日常的な会話や沈黙を埋めるためのやりとりはこちらに該当します。


「明確な目的がない」ということは、やりとりに達成目標がありませんし、よって付随的に評価指標も設定しづらくなります。また、達成度や評価指標もないので、具体的な指導のポイントも見えづらいように感じます。


一方で、人間の言語のやり取りは、全てが「明確な目的があるやりとり」ではありません。一見意味のない会話であったり、取るに足らない会話の果てに相互理解があり、人間らしい関係性が生じます。世間一般で言われる「コミュニケーション能力」は、皮肉にも指導しにくい、こちら側の「明確な目的のないやりとり」なのではないでしょうか。


では、この「明確な目的のないやりとり」を指導する際に着目すべきポイントはどこなのでしょうか?



中学生が「やりとり」に困る要因は「話題」


久松(2020)では、自由即興会話によるスピーキングテストで発生したコミュニケーションの不和を分析し、その場面を分類しました。中でも、最も頻繁に発生したコミュニケーションブレイクダウンは「次の話題が思いつかない」という項目でした。この結果は、英語の熟達度に関わらず、上位層・中間層・下位層にも共通したものでした。



「話題」を展開するテクニック


以前の記事で、桐生稔著『いまさら聞けない 雑談の一流、二流、三流』をまとめましたが、「会話力」=「相手に会話させる力」と捉えると、対話的な「やりとり」の指導の取っ掛かりが見つかりそうです。


詳細については、以前の記事("コミュ力"向上トレーニング)を参照していただきたいのですが、自由即興会話の活動を行う際には、以下の項目を導入指導してもよいのではないのでしょうか。


①「気づき」を言葉にし、相手に問う

②「共通部」と「差異」に着目する


さらに今回の結果を踏まえると、


③奥の手「話題の転換の表現」


を指導しても良いかもしれません。割と放任的に行ってしまいがちな「自由即興会話」の活動ですが、「流暢なやりとり」を育成しようと考えると、上記のような観点を指導することが有効なのかもしれません。



まとめと本音


コミュニケーションは「双方のやり取り」であり、一方の能力だけを評価・説明するのは困難です。その結果、評価しづらく、付随的に指導もしづらい活動は、あまり気が進まない領域なのかもしれません。

その一方、“人間らしいコミュニケーション”は「明確な目的をもたないやりとり」を基盤としているような気がします。英語という言語に限らず、最終的には母語の領域においても活用できるようなスキルが還元されることで、汎用的な対人能力の育成が期待できることから、教育的な意義は非常に高いと考えます。

ただ、「コミュニケーションの成功/不和」については、非常に主観的な評価付を下さないといけない領域であり、実際の「指導→評価」のプロセスについては、ある程度妥協して行わなければいけないのかもしれません。従来とは違うアプローチでの観察が必要なのかなぁと感じました。


何か知恵があれば、教えていただきたいですね、、、