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2017年3月5日日曜日

卒業式を終えて 2017

 先日、卒業式を終えました。今の学校に来て1年目の私との付き合いなんてのは、所詮1年という短い期間に過ぎないのですが、私の中では大きかったです。 正直なところ、一人一人との思い出を振り返ると日が暮れるので、思い出の中でも今後私が教員生活を続けていく上で忘れたくないことをザックリとまとめておきます。


・ 深みのある授業へ  

日々の授業を進める上で、もちろん「英語力を高めてあげたい」という思いは常に根底にあります。しかし、同時に「英語を必要のない生徒もいるのでは」という葛藤や、さらには「教師と生徒がお互いに形式的な お約束としての授業をこなしているだけなのでは」と思ってしまうこと、これらが全くないというと嘘になると思います。正直なところ、特に高校3年生を迎えると、短期的な進路を決定する上だと英語を必要のない生徒がクラスにいることはレアなケースとは言えないと思うし、そうは言ってもお互いに義務感を感じて最低限を消化している面もあったかもしれません。しかし、それは私の英語観、言ってしまえば教育観の浅さが起因するものに過ぎないように思えます。もちろん、生徒一人一人にはそれぞれの志望があり、それ故に英語の授業に対するニーズは決して一枚岩でないことは承知の上です。ある生徒は「推薦入試のために定期テストの成績が上がるような徹底的なテスト対策の授業」を求めているかもしれないし、「ひとまず卒業のために赤点だけを回避すれば良い」と考えている生徒もいるでしょう。一方で「受験で英語を使うので、しっかりと周辺の知識までしっかりと押さえたい」生徒や「ニーズの異なる生徒とのペア活動に対してストレスを感じるために個人で学習を進めたい生徒」もいるでしょう。そのような多様な生徒が混在する教室の中で、絶対的に正しい授業スタイルはないのだと思います。が、少なくとも「この授業を受けたら利益になる」と思えるような、幅広く、さらには奥深い面白さを提供しなければいけないのだろうと痛感しています。もちろん、それらが結果に繋がる必要があるということは言わずもがなですが。そのためには、私の教育観を更に深め、英語観も深めて行く必要があるのでしょう。今の私は幸いにも若く、生徒と年齢が近いこともあって、小手先の面白さで生徒がついてきてくれている部分が大きいと思います。ただし、この状態にあぐらを掻いていては、何よりも生徒に申し訳ない。日々、自己研鑽を続けていかないといけないと痛感させられました。生徒からの「ありがとう」という言葉は確かに嬉しかったのだけれど、私の内心では「もっと何かしてあげられたのでは」と思わざるを得ません。この気持ちを忘れることなく、深みのある授業を目指して頑張ります。

・ 部活動に関して  

正直なところ、今回送り出した3年生には「申し訳ない」という気持ちで一杯です。前顧問が転勤し、代わりに全くの専門知識も経験もない私が顧問になったことに関しては、誰かが何かをできたわけではない、言わば仕方がないことでした。ただ「そんなこちら側の事情は、生徒が被害を被る理由にはならないのではないか」、「せめて前顧問がいたときと比べてできる限り不自由さを感じさせない努力は必要なのではないか」という想いがあり、初めは強い義務感を常に感じていました。ですが、義務感ばかりだったのは初めのうちだけで、ボロボロに頑張る姿を見ている中で、「力になってあげたい」と心の底から思うようになるのにはそう時間はかからなかったように記憶しています。それ故に私に専門性も運動経験もないことは本当に悔やまれました。この未熟さは、例え私が全力で専門書を読み上げたところで、コートの外から眺めているに過ぎない以上、決してなくなることはないと思います。そういう点では、私が今の部活の顧問になっている以上、私は申し訳なさを感じ続けるのでしょうが、特に今回の3年生に関しては最後の最後に支えとなっていたものが急に無くなってしまった、不用意な不安感を覚えたのではないだろうか、と本当に申し訳なく思っています(もちろん、3年生だけに思っていることではないのですが)。おそらく私もそのうち、部活の顧問として慣れていき、いろいろなことを経験していく中で、自分の理想の形を持つようになると思います。その大きな原型を、卒業生に見せてもらったと思っています。なので、少し綺麗にまとめるならば、部活の卒業生に対して言わなければならないことは「ごめんなさい」なのだけれど、言いたいことは「ありがとう」なのだと思います。実際のところ、部活の卒業生との関わりは引退までの数ヶ月に過ぎなかったけれど、私が顧問として携わりたいと思ったのは、決して競技に対する情熱に目覚めた訳でもなければ、部活動の顧問としての実績をあげたいとかそんな打算的な理由ではなく、とにかくボロボロの彼女たちを応援したいという想いだけだったのだと思います。(ユニフォームを含め←)ボロボロな面は至る所で垣間みえていたことは否めないチームではあったけれど、時に賢く、時に狡く、常に強かったあのチームをきっと忘れはしないでしょう。


 最後に、今年卒業を迎えた3年生の皆様、ありがとうございました。

2017年1月3日火曜日

振り返り(2016)



 新年が始まって3日が経過してしまいましたが、簡単に昨年を振り返り、今年に生かしていこうと思います。


   全日制の高校に変わる

 昨年の春まで定時制高校で勤務しておりました。確かに、定時制の高校と全日制の高校の様子は大きく違います。しかし、私の目の前にある光景に限らせてもらえば、その大きな違いは生徒の進路です。
 定時制の高校が持つ大きな役割は「社会に出る準備」だったように思えます。定時制高校は彼らの最終学歴にあたる教育現場です。そこでは、いわゆる「仕上げ」が求められます。就職先もほとんど決定していますから、正直なところ、彼らが多少英語を使えるようになったとしても彼らの将来は変わらないのが重い事実でした(今思えば、私の思い込みだったのかもしれません)。その時に、私が見つけた使命はとにかく「自信をつけて社会に出てもらいたい」ということでした。「やればできる」という感覚をもって胸を張って社会に出てこいというメッセージが授業で伝わればいいなぁ、その一心で授業を準備していました。
 一方、今いる全日制の学校では、生徒たちは進学を前提に入学しています。ステップアップをさせ、さらに次の教育へ引き渡す役割を担います。就職を前提とした定時制では「何とかなるんじゃないかな」と思わせる教育が中心でしたが、進学を前提とした現在では「もっとやれるんじゃないかな」「やってみようかな」と思わせる教育に切り替える必要があるようです。現在の私の理想像は、模試の結果を次のモチベーションに変えてもらうという正のループです。言い換えると「何か当たり前のようにやってたことが積み重なって、結果につながってきたし、もう少しやったらどうなるんだろう、やってみよう」という流れが理想形です。
 そのためには、現在大きく分けて3つの課題を抱えています。
Ø  学習への意義付け (何故進学をすべきなのか)
Ø  学習方略への理解 (どのような学習が効果的なのか)
Ø  学習への動機付け (とりあえずやりたくなる第一歩)
 結局、この辺をしっかりと紐解かなければ、「どういう授業が効果的なのか」という方法論に繋げたところで効果が上がらないように思えます。
 目の前の生徒を見ていると「進学するのが当たり前」のような雰囲気はありつつも「勉強するのが当たり前」という雰囲気に欠ける不思議な感覚を覚えます。どうやら、学習習慣が醸成できていないようです。この学習習慣の欠如に起因するのは上記で挙げた「学習意義の欠如(何でやらないといけないのかよくわかっていない)」「学習方略に関する理解不足(どうすればいいのかわからない)」「学習への動機付け(一歩目が出ない)」に収束しそうです。現状で、何をどうすればこの辺りが伝わるのか具体的な像が持てていないので、しばらく考えてみることとします。


   バレーボール部の顧問になる

 正直、全く経験のない競技なので戸惑いと申し訳なさの連続です。でも最近、少しずつ見えてきたことがあります。
Ø  どうしようもないことはどうしようもない
 私はバレーボールに関して完全に素人です。高校生の生徒たちの方がよっぽど玄人ですし、技術的な面は絶対に優位に立てません。確かに数冊の本を読んだりしましたが、この「バレーに関する知識は常に生徒の方が勝っている」という点は常に忘れないようにしなければいけないと思います。
Ø  部活は技術的に伸びればいいだけではない
 確かに競技としての知識は無いのには違いありません。ただし、私の担当をしているのは「バレーボールのチーム」ではあると同時に、「バレーボールの部」である点を留意しなくてはいけません。部活である以上、「ただ強くなればいい」わけではないと信じています(もちろん強い分には一向に構いませんが)。生徒と関わっていて強く感じるのは、私の役割は「バレーボールの指導者」ではなく、「生徒自身が満足し、成長できる環境を整えるサポーター」なのだと思います。前述の通り、私は競技の指導はできません。おそらく、経験を積んでいけばどこかで変な自信をつけるようになるかもしれませんが、おそらく私がいくら経験を積んでもそれはプレーヤーのそれとは異なるものです。ただし、顧問として環境を整えることには全力を注ぐべきだと感じています。実際やっていると、目標の明確化や精神的なサポートなど、意外とまぁそれなりにやれることもあるもんだなぁと感じます。
Ø  何より楽しい
 まぁ偉そうなことを抜かしつつ、本音を言えば部活はとても面白いです。部活ほど生徒の成長を間近で感じられる場所はありません。もちろん、これが専門的な知識のある部活であれば更に思うことはあるのでしょうが、それがなくても楽しさをしっかりと感じています、もちろん申し訳なさこそ感じますが。
 まさか、私自身、ここまで部活に気持ちが惹かれる人種だとは思ってもいませんでした。昨年で一番の発見だったかもしれません。


   忙殺される日々

 正直なところ、私も一人の人間であり聖人ではありません。上記で述べたことばかりの素晴らしい日々を過ごしているわけでもありません。多くは語りませんが、色々と犠牲にしている感もそれなりにあります。まぁ、こんな生活が想定外だったかと言われれば嘘になります。予想通りの多忙さです。さて、今は自らこの道に進んだことに喜びを感じることができていますが、この思いが10年後、20年後、後悔になってないことばかり祈っています。選択肢などないこのまっすぐに延びたレールの先には、幸せがあるのか。今の車窓の風景は悪くないけれど、果たして行き先はどうなのでしょうか。


   イベントに携われる喜び

 もう面倒くさくなってきたので簡潔に書きます。文化祭やら体育祭やらがとにかく楽しい。何やかんや言いつつ、これが目当てで教師になったのかもしれません。祭、最高。


以上です。次に文章を書く気力が起こる日が来るのかどうかはわかりませんが、また機会があれば、色々とまとめていきたいと思います。ちなみに初夢では「英語教育をきちんとしなさい」と教授に怒られ、論文でも書こうかとパソコンと向き合った矢先に、部活や文章の仕事に追われてそれどころではなくなるという、何とも言えないものを見ました。まぁ、何が幸せなのかはよくわかりませんが、今年は「忙しさを言い訳にしない」という抱負のもと、しっかりと頑張りたいと思います。どうぞ宜しくお願いします。