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2014年8月11日月曜日

大学入試は良くなれない? ※個人の見解


2014年度 全国英語教育学会で聞いたシンポジウムをもとに、自分なりの大学入試に関する見解をまとめてみます。

大学入試は良くなれない?

あくまで個人的な見解なのですが、大学入試が万人にとって最高の形になることは不可能だと考えます。その理由は、大学入試には様々な立場からのニーズが存在し、それら全てを解消することはできないからです。

大学側の入試へのニーズは「学術的に求められる英語を限られた予算の中で測定し、質の高い入学者を選別する」であることが常です。大学では、論文を正確に読めたり学術的に質の高い文章の産出が求められ、英語による日常会話はあまり重要視されません。大学の目的は様々ですが、その一つが研究ですから、当然なのかもしれません。また、研究が主な目的ですから、その選抜のための試験にはあまり予算を割いていられません。面接による直接テストが好ましいのかもしれませんが、これには多くの予算がかかります。「いい学生を求めるために面接を導入したがために、受験料が上がり、結果的に受験生が敬遠する」となると本末転倒です。よって、ペーパー試験の方が都合がいいのです。さらに試験という性質上、学習者を学力に応じて分別しなければならず、簡単過ぎる問題を出すわけにはいきません。また、最近の大学入試は簡単になり量が増えるという傾向がありますが、問題数が増えれば作成や採点にも時間がかかるため、難しい問題を用意するのが一番ニーズに適っています。結果的に大学側からすれば「予算の安いペーパーで、研究に必要な知識を、難しいめ問題で確認する」のが効率的です。

一方、高校側の入試へのニーズは「授業で扱った内容の定着度を測定して欲しい」というものです。高校の授業内容は通常学習指導要領で規定されており、その根幹は「コミュニケーション能力の育成」となっています。そのため、英語科の授業では従来の訳に傾倒していた授業形態が否定され、コミュニケーション重視でのスタイルが奨励されています。(もちろん、コミュニケーションというものを冷静に捉え直せば、単なる英会話だけがコミュニケーションではなく、筆者と読者の正確なやりとりである訳読等も重要なコミュニケーションの一部に該当すると思うのですが、従来の反動なのか最近の英語の授業では異様にこの訳という作業がタブー視されてきたように感じます。)この制度上の背景から、高校での授業は英語のやりとりを中心に取り扱いたいのですが、高校の出口である大学入試が訳読する力を求めていることで、ジレンマに悩まされます。生徒の進学を優先すれば指導要領を無視してしまうことになり、指導要領を優先すれば生徒は授業についてこないかもしれない(現段階での私見では両立の道も存在していると思っていますが、(これはあくまで偏見ですが)教材が指導要領に合わせたもの・受験に合わせたものとはっきり分かれている、両立するための教授法が確立されていない点から、教師が相当試行錯誤しなければ不可能だと思っています)。結局、高校側からは大学入試には読解をメインで問うものではなく、コミュニケーションを測定するモノ、特に直接テストの様な形式で、産出面をもっと評価して欲しいというニーズが生まれます。そして、従来のような学術的な内容ではなく、もっと日常生活に基づいた(言い換えれば難易度を落とした)題材を使って欲しい。さらに、生徒は全員が裕福であるわけではありませんから、予算は抑えて欲しい。その結果、高校側が大学入試に求めるものは「予算のかかる直接テストで、実用レベルの英語でのコミュニケーション能力を、日常に身近な題材(簡単な問題)で確認する」ものであり、且つそれを安価な形で要求しているのかもしれません。

結局、両者でのニーズが大きく異なるために、そもそも「良くしよう」といったときの「良い」のベクトルが異なるため、両者にとって完璧な試験は存在しないのかもしれません。

「英語は必要だから生徒はついてくるでしょう。」

このことを考えている際に、以前数学の先生から言われた言葉「数学は将来いらないけど、英語は必要だから生徒もついてきて楽でしょう」というのが頭をよぎりました。受験に関しては数学も必要なのは同じ点を踏まえると、この言葉の中の「必要」は指導要領上の「コミュニケーション能力」を指しているのかもしれません。一方で、そのコミュニケーション能力を重視した英語に傾倒した授業をすれば、特に高校3年生から「先生の授業は英会話はできるようになるのかもしれないけど、入試みたいな難しい文章は読めるようにならない」という不平が出るのは容易に想像ができます(実際に、塾に勤めていた時には、このような「学校の授業が受験と関連しておらず、やる気が起こらない」といったことを耳にしていました)。様々な英語のニーズが求められている現状で、本当に英語を教えることは簡単なのでしょうか。

高等学校のカリキュラムの出口である大学入試が変われば、英語教育は過去の文法訳読式の形態から指導要領の目指すコミュニケーションの方向へスムーズにシフトできるのかもしれません。一方で、制度上大学入試を変えるのが困難なのもわかります。両者が動かない状況で、昨今話題になっている外部試験導入がどのように影響するのか、、、と、考えれば考えるほど試験の「良い」とは何なのかわからなくなってしまいます。

果たして、今後どうなるのでしょうか。個人的には高校側の意見が採用されればいいなぁと思う一方で、そんなことになれば予備校はどうなるのか心配です。


2014年3月1日土曜日

『高校中退』を読んで -知っておきたい高校中退-

本記事は宝島社新書 『高校中退』 杉浦孝宣著 を読んだまとめ・感想です。

高校中退するとどうなるのか

高校中退者は全国で年間5万人という無視できない数字です。社会を知らない中高生にとって、「高校卒業しないと社会でやっていけない」という感覚は実感しにくいようです。
では、中卒に待ち構えている中卒に待ち構えている現実とはどのようなものなのでしょうか。本書では以下のことがまとめられていました。

  高卒に対して10倍以上の差で就職先がない

Ø  さらに職種が林業・製造業等に絞られ、志望されない

  劣悪な労働条件

Ø  生涯賃金の格差が16500万円


このように、「高校中退」という進路を選択してしまうと、現状の社会体制では「本来個人が送りたかった人生」が叶わなくなるのではないでしょうか。高校中退にも様々なパターンがありますが、「何となく高校に通うことが違う気がする」といった漠然とした理由での高校拒否の場合は、その先に待っているさらなる不自由を教えておかなければいけないかもしれません。(もちろん、いじめ等が原因の場合はさらに追い込むことになるので、慎重な判断が求められると思います。)

どのような経緯で高校を中退したとしても、結局「高卒認定試験」「単位制通信高校」「編入・転校試験」を受けることで何とか高卒資格を遠回りしながら獲得するのが一般的なようです。この選択をしてしまった場合、中学卒業時から3年間で資格が取れるとは限りません。高校生にとっての1年間は非常に大きく、人より1年間長い学校生活は過酷と思われるので、苦しい思いをしながら高卒資格を獲得する前に何として「高校中退」は避けなければならないのではないでしょうか。

 また、本書『高校中退』では、高卒認定試験を目標としている塾の目線から実際に高校を中退した生徒の実態が紹介されていました。興味のある方は読んでみては如何でしょうか。(ただ個人的には、紹介されている内容に高等学校への批判が多く含まれており読んでいて心が痛みました。本書では「このような職業柄、高等学校の良くない面ばかり見えてしまう」という注意書きこそありましたが、仮に書いてある内容が本当なのであれば、大問題と成りうる内容が多数含まれていました。(生徒が圧倒的に不利になる時期を狙って退学させる、高卒認定試験の推薦書を送付しない等))


一方で社会は不登校・高校中退を許しがちである


現在社会における「不登校」という問題は過去とは少し変わってきているのではないでしょうか。学校に来ない生徒に対し教師は簡単に「お前、甘いよ」と言うことは許されず、世間には自分らしさを探求していこうという風潮が蔓延することで、「不登校にはそれなりの理由があるから仕方ない」とする社会の流れが存在するのではないでしょうか。その結果、親・子ども・学校が不登校というものを簡単に許容してしまいがちになっているのではないでしょうか。本来の教育とは「不登校を許容する」ことではなく、「共になって不登校と向き合う」ことなのではないでしょうか。高等教育ではしばしば「義務教育ではない」という言葉を盾に面倒な問題を家庭や生徒本人に任せきりの側面があるように思えますが、それは教育の放棄であることを自覚すべきであり、不登校・中退に対して「しょうがない」といった肯定的な態度をとることは本来あってはならないことでしょう。


不登校を立て直す3つの原則

著者は多くの高校中退者と接する29年の中で、不登校を立て直す以下の3つの原則を確立していました。

1. 規則正しい生活を送る

2. 学力を確立する

3. 環境を変える (転地する)

1.の「規則正しい生活」に関してはうつ病とも関連があるそうですが、ここでは説明を省略します。生徒の生活リズムは徹底して管理していかなくては、不登校をなくすことはできないようです。(以下は個人的な感想です。教師という職業は生徒の生活リズムまで管理しなくてはいけないものなのでしょうか。確かに「生活リズムまで管理する」と色々切り離して考えてしまえば、生徒は学校を離れているので本来の職務では無いように思えます。しかし、「生活リズムが不登校の第一段階に成りうる」と知ってしまったらどうでしょうか。生徒の生活リズムが崩れているのを知っておきながら「個人の自由だ」と判断できないのでは、と個人的に考えてしまいました。となれば、教師は生徒が自立するまでどこまで支援しなくてはならないのでしょうか。うーーん、、、)

2.の「学力を確立する」に関しては、『学力がなければ高校も卒業できず、大学にも入学できない』と短く書かれているだけでしたが、非常に共感する部分がありました。学校とはその時間のほとんどが学習に使われます。授業内容が理解できる程度の学力があれば、その内容に注意が向かうので何とか教室に留まることはできるでしょうが、その学力がなければ、授業についていけず授業中の時間は軽い拷問と成り代わっていまいます(大学では興味のない授業は出席しないことが許されていましたが、高校は強制参加です。自身の大学時代を振り返って比較してみると、高校生ってスゴいなぁなんてわけわからない感想をもらしてしまいます…)。よって、不登校にさせないために必要な要素の1つに学力が挙げられるようです。逆に言えば、勉強の出来ない生徒には不登校にさせない配慮が必要なようですね。

3.の「環境に変える」とは、本書内では一般の高等学校とは別で存在する高校教育制度が該当します。現状では通信制高校が一般的なようですが、この通信制高校の大きな問題は生活が不規則になってしまい続かない恐れがありますので、定時制高校や高卒認定予備校なども視野に入れておくべきでしょう。教師が受け入れ先を知っているかどうかは大きな違いを生むと思います。無理に生徒を学校に縛り付けたり、無慈悲に退学申告させず、次の環境に身を移す選択肢を持つことができます。容易に使うカードではないでしょうが、持っておきたい切り札かもしれません。




本書を読んでの一番の感想は、「教育放棄の概念の拡大」です。規則に従った上での退学宣告、不登校を「仕方がない」と言って様子を見る、これらの行動は一見教育的に見えるもののきちんと考えてみれば、単なる教育の放棄に該当するのではないでしょうか。一方で、大勢いる生徒全員の生活にまで注意を向けることは不可能です。結局、「やらなければならない・やった方がいいことは多いけど、現状ではやるだけの方法・時間・人材が足りてないんじゃない?」というどうしようのないところに行き着いてしまいます。が、これも個人の意識で変えることの出来る部分もあるかもしれません。不登校と向きあう日がいずれ来るかもしれません。考えるいいきっかけになりました。

2014年2月18日火曜日

鈴木翔『教室内カースト』を読んで

鈴木翔『教室内カースト』を読んで


以下は 鈴木翔『教室内カースト』を簡単にまとめています。(時間があまりないため、印象に残った部分を簡単に内容をまとめただけとなっています。)


我々が自身の学校生活を振り返った際に、多数の方が(いじめに満たないものまで含む、広い意味での)上下関係を感じたことがあるという。本書では上位に位置づけられる「1軍」、下位に位置づけられる「3軍」の簡単なチェックリストが記載されていた。以下は本書で紹介されていたリストの一部(pp.34)を省略・抜粋したものである。(森慶一「学校カーストが『キモメン』を生む-分断される教室の子どもたち」の直接引用のようです。)


  あなたの子どもは1軍? それとも3軍? チェックリスト
1軍、Aランク特徴】
  サッカー部、バスケ部、野球部のいずれかに所属
  遠足はバスの最後列を仲間内で占拠
  休み時間はクラスで仲間と騒いでいる
  学級委員や生徒会など面倒な仕事はCランクに押し付ける
  制服を改造したりインナーを変えるなど、工夫している
3軍、Cランク特徴】
  文化系、または卓球部に所属
  修学旅行や体育の時間にグループ分けで余る
  外見を気にしない(髪型や眉毛の手入れ、ニキビのケアをしていない
  異性とコミュニケーションを取れない
  オタク趣味である


私も自身の経験を振り返ると確かに、上記の項目に該当する生徒はいわゆる「1軍」「3軍」としてそれぞれのポジションに固定されて、確かに一定の上下関係が存在していたように感じる。もちろん簡単なチェックリストに過ぎないので、必ずしも当てはまるわけではないが、上記の項目の諸要素は何となく正しいような印象を受ける。

本書では、上記に見られるクラス内の上下関係である「スクールカースト」を、いじめとの関連という観点からではなく、「スクールカースト」そのものの実態を調査・紹介している。「スクールカースト」の定義は以下の通りである。(pp.29) (森口朗「いじめの構造」の直接引用のようです。)

スクールカーストとは、クラス内のステイタスを表す言葉として、近年若者たちの間で定着しつつある言葉です。従来と異なるのは、ステイタスの決定要因が、人気やモテるか否かという点であることです。上位から「一軍・二軍・三軍」「ABC」などと呼ばれています。


スクールカーストそれ自体はクラス内での上下関係であり、それがいじめそのものとは一致しないのが注目すべき点だと思います。いじめは身体的・精神的な苦痛を伴うものですが、スクールカースト自体は単なるクラス内の位置づけであり、各ポジションに割り当てられた生徒が苦痛を感じているとは限らないという特徴を持ちます。
自身の経験を振り返っても、やはり(卓球部を除く)運動部は積極的に発現する場面が多い記憶があるし、彼らの主張が多少強引でも押し通ってしまう場面を見た気がする。逆に、文化系の部活に属していた生徒は損な役回りを引き受けがちだった覚えもある。ただし、彼らがそれらを苦痛と感じていたかと言われると、そうではなく「キャラ的にしょうがない」と納得していた気がするし、各グループ内ではそれなりに楽しそうな学生生活を送っていたように思える。

ただし、スクールカーストそのものはいじめとは一致しないものの、いじめと重ねあわせて考えると、やはり3軍と呼ばれる立場の低い人がいじめの対象になることが多いという。この点では、スクールカーストはいじめを助長する人間関係とみなすことができる。実際に下位グループに属していた経験を持つ生徒の声が記載されていたが、グループ内では楽しかったもののグループ間での接触が起こる際には陰鬱になったようである。また上位グループに属する生徒は、優越感に浸る場合が多いようだが必ずしも幸せというわけではなくそのポジションにふさわしい振る舞いが求められるため窮屈さを感じていたという声が記載されていた。
しかし、スクールカーストは生徒が自主的に意図して形成しているものではない。「にぎやか」で「気が強く」「異性の評価が高い」生徒が自然と上位グループを形成していき、そうではない「地味」で「目立たない」生徒が自然と下位グループとみなされていく。これらは、生徒のキャラクターに依存するものであり生徒自身が変えようとして変えられるものではないことが直感的にもわかる。自然と形成されていくものにも関わらず、その人間関係は生徒にとって不快な環境を生みかねない上下関係となり、彼らの学生生活に大きく影響していくのである。


上述のように、スクールカーストそのものはいじめではなく、彼らの趣向や帰属意識により自動的に慶されていく人間関係である側面を持つので、教師はこれらを「いじめ」として対処することは非常に困難のように感じる。実際に不平等な仕事の押し付けがまかり通ったり、一方的にバカにする場面が見受けられるものの、下位に属する生徒が苦痛を感じていなければ、現状のいじめの定義では対処することができない。いじめの発生源であるとわかっていつつも、問題が起こるとは限らないし、生徒同士も無意識で完成させた人間関係であるために、教師が介在して対処していくことは不可能のように思われる。

興味深く感じたのが、教師から見たスクールカーストの映り方である。スクールカーストは生徒から見れば不愉快で固定的な上下関係であり、彼らの学生生活を考えれば危険な環境であるが、教師はこれらの関係を「コミュニケーション能力の現れ」と見なし、問題視していない、故に助長させてしまう側面を持つようである。上位グループに属している生徒は、教師にとって「にぎやかで活発な生徒」とみなされる場合が多く、また、彼らの意見は押し通ってしまうので一種のリーダシップ・カリスマ性・コミュニケーション能力と映る。そして彼らは自己主張が強く手がかかることから思い入れが強くなりがちで、教師からすれば「かわいい生徒」と映りやすく、優遇されてしまうケースが多いようだ。一方、下位グループは教室内において自己主張がなかなか許されないために、教師から見ると「よくわからない・何も考えていない・決断力のない生徒」とみなされてしまうことがあるという。彼らは立場上自己主張がしづらいために周りの意見に流されがちであり、それ故に教師は自己決定を避ける怠慢な生徒のように映ってしまうこともある。これらを踏まえた教師の言動はさらにスクールカーストを助長させていくことになる。

生徒にとっては「権力関係」、教師にとっては「能力の顕在化」とみなされるスクールカースト。これらの具体的な対策は未だ見つかっていないようである。しかしながら、教師はスクールカーストの存在を知り、きちんとその内情を考慮しなければならないだろう。
非常に興味深く拝見できる一冊でした。



鈴木翔『教室内カースト』光文社新書

2014年2月7日金曜日

英語を勉強する意味 デューイ『民主主義と教育』を読んで

大学院の授業にて、デューイの『民主主義と教育』を読む機会がありました。
以下は、授業の最終課題として書き上げた感想を、ブログ用に整えたものです。

テーマは「どうすれば英語を勉強できるようになるのか」です。

どうすれば英語を勉強できるようになるの?


-個人内における英語の「価値」-


 私たちは好きなことであれば、何でも覚えることが出来ます。どんなに外見が類似しているガンダムだって、私は勘違いすること無く名前を挙げることが出来ますし、ちょっとマイナーな芸人であるラーメンズであれば、そのコントのワンシーンをパッと見れば、そこでのセリフをほとんど再生することができます。このことから考えると、私たちの頭は大容量ハードディスクであり、ものすごい効率で情報処理が可能なスーパーコンピュータと呼べるでしょう。

 好きなことだったら何だって覚えられる・処理できる・向き合える一方で、私たちは「勉強」となると受け付けなくなるから不思議です。好きな歌ならば、その歌詞・メロディー・背景情報まできっちり覚えられるのに対し、例えば「教科書の英文暗証」には大変な労力を割かなければいけない印象があります。私個人の話をするならば、ラーメンズのコントならその言い回しを一つ一つ記憶できるのに、英語のコロケーションはいつまで経っても身につく兆しはありません。

 さて、前述の「ガンダム」や「ラーメンズ」は一般的に趣味というカテゴリーに含まれると思います。趣味はあくまで趣味であり、「この趣味を使って一儲けしてやろう」なんてことは考えておりません。趣味は、直接的には利益とは結びついていないように感じます。趣味は利益を生じないのに関わらず、私たちは趣味ならば他人の監視や明確な目標や理由が無くとも延々と繰り返すことが出来ます。端から見てみると、「何でそんなにやってるの?」と疑問が浮かぶほど趣味に没頭する人はそうそう珍しい話でもないので、趣味への没頭は精神的な異常による固執でもなさそうです。
 また、他人の趣味に対して、仮に理解は示せるとしても、完全に共感して一緒に楽しく延々と繰り返せるケースは多くないことから、どうやら趣味に対する考えは万人共通ではないことが伺えます。つまるところ、趣味には個人の中で、特有の「価値」が生じているようです。(以下では、万人に共通する価値は括弧なし、個人内に生じる特有の「価値」については括弧付けで表記します。)
 趣味には自身の中に「価値」が確立しているので、どれだけ繰り返してもなかなか疲労感は蓄積せず、むしろ心が開放される感覚すら覚えるようです。つまり、自身の中で「価値」が生じているので、やればやるほどその価値に触れられ、満足感が生じるようです。その満足感のために、私はラーメンズのDVDを何度も繰り返し見れますし、トランペットの練習は唇から出血するまで行ったこともあります。
 一方で話が勉強となると、通常多くの人は長続きしない、もしくは非常に困難で辛いものというイメージが生じがちです。まずは身体的負担について考えてみましょう。その苦痛は、趣味が継続的に行えることを基準に考えるならば、並大抵のものではないように思えます。前述の「口から出血しようともトランペットの練習なら行える」という事例を基準とするならば、「おとなしく座って本を読む」なんて、圧倒的に楽な作業に思えます。しかし、実際にかかる身体への負担という側面で考えると、趣味に対して勉強が続かない説明はつきません。
 趣味に対して勉強が続かないことを、身体的負担で説明出来ないようなので、価値という観点で考えてみましょう。ここでは英語を例に挙げてみます。英語を勉強すると、「外国人とも会話でき世界が広がり」、「洋楽・洋画をより楽しめ」、「扱えるだけでカッコよく見えます」し、「受験や就職で有利」と、もはややらない理由が考えられないくらいいいこと尽くしです。少なくとも、私の趣味「(マイナーなお笑いコンビの)ラーメンズのコントを暗記する」ことのメリットは絶対に及ばないでしょう。このようにメリットや理屈では圧倒的に英語を勉強する意義は強い。それなのに勉強となると継続は困難になります。
 勉強になると実践できないのは何故なのでしょうか。それは勉強に対しては、自身の中で「価値」が生じておらず、その必要性を体で感じていないのかもしれません。結局は「頭でわかっていても、体で「価値」を感じていないと続かない」と、最近考えるようになりました。デューイは『民主主義と教育』の中で、学習は生徒の日常の中で生じる疑問で行わなければならず、成長は世間に対する対応力を高めていく変容であると述べています。私はこの本を読み進め、最終的に「勉強は頭の中でできることではなく、体・心までついてこないとできない」という考えに行き着きました。
 近年、私たちは大量の情報・テクノロジーに囲まれ生活を送っており、もはやこれら無しでは生活出来ないと感じています。しかし、我々は本・ネットの中に生きているわけではなく、あくまで道具として用いることにより実生活を行っているので、どれだけこれらの道具、科学が発達しようとも、結局のところそれを用いる人間の身体や精神は伴います。すなわち、身体や精神の領域から目を背け「学習」を科学で語ろうとしても限界を迎えるように感じました。つまるところ、世間一般で言われている英語学習のメリットを山ほど並べたところで、そこに人間の体や心が「価値」を見出さなければ学習の継続にはたいへんな労力を伴います。



 ではどうすれば、教師として教壇に立った際に、生徒の中に英語の価値を確立させることができるのでしょうか。前述のとおり、単に英語のメリットを理解させるだけでは頭の次元までしか通用しないために効果は薄いことが予想されるため、心まで動かさなくてはいけません。しかし、多くの人が経験から何となくわかるでしょうが、人の心を動かすのは容易なことではありません。今回考えた3つの方法を以下で紹介しますが、これらは一朝一夕で実践できることだとは考えていません(ましてや実際に教壇に立ったことのない、大学院生のおべんちゃらに過ぎない程度です。)よって、以下では教壇に立つ上での心構えとして掲げながら、きちんと生徒一人ひとりと向き合い対応しなければならないことを前提として紹介します。


 まず1つ目の方法は「英語そのものの面白さから英語の価値を生じさせる」ことです。イメージとしてはテレビ番組のアメトーーク、実際にはないのですが「英語芸人」です。テレビ番組アメトーークで、毎週テーマごとに集められた芸人が自分たちのテーマをもとに面白おかしく展開されていくバラエティ番組です。この番組では数多くのテーマを取り扱うため、テーマによっては一切の背景知識がない場合があります。しかし、「身近でない」・「背景知識のない」ようなテーマであるのにかかわらず、出演者は面白おかしくそのテーマを紹介し、笑いをとります。番組が終わった際には、「何か面白そうだな」と思ってしまいます。私は、このアメトーークの構図が、英語の内容面に重きを置く英語の授業と非常に通じていると感じています。つまり、英語のマニア(芸人)である教師がその内容の面白さを視聴者である学習者に伝え、学習者内に面白さという「価値」を引き起こし、授業に引き込む。笑いの有無に関わらず、そこで行われている行為は類似しているのではないでしょうか。

 この方法で教師に求められることは、徹底した教材研究だと思います。この教材研究はひとりよがりであってはいけません。「視聴者である学習者がどのような内容なら関心を示してくれるか」、「どのように運べばきちんと楽しんでもらえるか」、「どう使わせたら生徒は家で教科書を見返させられるか」、教材研究には常に視聴者である学習者を想定しなければなりません。単なる教師の目線からだけではなく、まだ英語習得の長い道のりのスタートラインに立っている生徒まで近づき、教材の下見を行い、丁寧に先導しなければ生徒は迷子になってしまい、ゴールを見失い、英語が嫌いになってしまいます。英語という側面から生徒を引っ張るためには、「綿密」且つ「視野の広い」教材研究が必至なのではないでしょうか。


 2つ目の方法は「個人内の別の価値観と英語を(無理やり)関連させる」ことです。塾での個別指導では、英語というか勉強に全く興味のない生徒を受け持つことが多々あります。以前、音楽が大好きでバンド活動を行っておりベースを持つと眠れなくなるものの、英単語帳ターゲットを持つと10秒で眠れる的なことを豪語する生徒を塾で担当したことがあります。彼が高校3年生になった4月当時、彼の中では「大学に行くこと」は実感がなかったようで、英語を勉強する意義が見いだせず、口を開けば「英語が嫌いだ、やりたくない」と、学習は継続できる状態ではありませんでした。(さすがにオーバーに書いているのか...?いや、彼は「単語テストの追試が嫌すぎて退学してやる」とも言っていましたから、言い過ぎではないと思います。笑) 彼はバンドマンだったのですが、たまたま私もバンド経験者だったので、よく生徒が練習している曲について話が盛り上がったのですが、彼の身の回りの曲は英語の歌詞ばかりで非常に違和感を覚えました。「英語を勉強すれば自分の演奏している曲のメッセージがわかるよ」と伝えると、彼は半ば「仕方ないか」といった様子で単語テストに精を出すようになり、学習が少しずつ積み重なるようになりました(英語を勉強し始めた理由をこれだけとは言えませんが、1つの理由にはなっていたと思います)。今のは非常に限定的な一例ですが、中学生・高校生である生徒の中には既にきちんと価値観が生じている場合が多く、彼らの既存の価値観と教科の関連を教師が示すだけで、彼らは「英語の価値」を確立してくれるかもしれません。
 この方法には、若者文化に精通していたり、幅広い趣味・教養が求められます。教室の後ろでたむろするやんちゃな生徒に対して魅力的な洋楽を紹介できるための音楽の教養であったり、部活しか頭にない生徒に対しサッカーの英語サイトを紹介するための情報網であったりと、教師は広い領域の文化に精通しておくと、ひょんな場面で彼らの学習につなげることができるかもしれません。


 3つ目の方法は「(英語という要素を取っ払い)自尊心のために使用する」ことです。しばしば勉強に取り組めない子の多くは、特に勉強に対して苦手感情を強く持っている場合が多いように感じます。そのような場合、ひとまず英語という勉強が成功する感覚を覚えさせ、取り組みに対して楽しさを見出してもらうことは、一つの方法だと考えます。これは英語という教科にとどまらず、すべての勉強・または掃除等の生活全般に当てはまるのではないかと思います。以前達人セミナーで、上山先生が「生徒が家庭学習に取り組むためには、その成果が見られるような仕掛け作りをすることが重要です」とおっしゃっていました。そうすることで、生徒の取り組みが明示的に残り、自分の成果を自覚することで自尊感情が生じるそうです。さらにそれらが褒められたりすると、それはそのまま「英語は褒めてもらえる=他人から評価され得る「価値」」へと変容する可能性があります。この方法は、生徒自身が自分の成長を感じられる場合だけでなく、生徒が認めている周囲の人から評価されることで、その効果を強く発揮する側面があるように思われます。ただし、評価してもらえる人物がだれでもいいかというと、そうではないように思われます。例え実際に地位のある校長先生から褒められたとしても生徒がその存在を高く感じていない場合はあまり効果を発揮しない可能性があります。できれば尊敬されている教師・もしくは親しい友人から評価され得る機会を作ってみることがいいのかもしれません。生徒に「俺って英語なら、やればできる」という感覚、「英語なら評価され得る!」という仕掛け作りで、生徒の中に「価値」を生じさせる要素は、授業に取り入れてもいいのではないでしょうか。(もちろん、これについては過剰な競争性に陥らない注意が必要だと思います。)


 とつらつらと述べてきましたが、振り返って思うのは結局のところ、相手は人間、しかもその価値観ですから、本来は直接操作することが出来ないものです。生徒が英語に「価値」を見出すことには3ヶ月、長ければ3年かかってしまうかもしれません。
 しかしながら、彼らの心に英語の「価値」という種が根付かなければ、教室でいくら良い肥料や水を与えたところで成長してくれません。体で必要性を感じていなければ、学習は継続しませんし、仮にやったとしても、直ぐに頭から抜けてしまいます。教師は試行錯誤しながらも、生徒の心に英語の「価値」が根付くのをじっくりと待たなければならないのかもしれませんね。