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2014年2月18日火曜日

鈴木翔『教室内カースト』を読んで

鈴木翔『教室内カースト』を読んで


以下は 鈴木翔『教室内カースト』を簡単にまとめています。(時間があまりないため、印象に残った部分を簡単に内容をまとめただけとなっています。)


我々が自身の学校生活を振り返った際に、多数の方が(いじめに満たないものまで含む、広い意味での)上下関係を感じたことがあるという。本書では上位に位置づけられる「1軍」、下位に位置づけられる「3軍」の簡単なチェックリストが記載されていた。以下は本書で紹介されていたリストの一部(pp.34)を省略・抜粋したものである。(森慶一「学校カーストが『キモメン』を生む-分断される教室の子どもたち」の直接引用のようです。)


  あなたの子どもは1軍? それとも3軍? チェックリスト
1軍、Aランク特徴】
  サッカー部、バスケ部、野球部のいずれかに所属
  遠足はバスの最後列を仲間内で占拠
  休み時間はクラスで仲間と騒いでいる
  学級委員や生徒会など面倒な仕事はCランクに押し付ける
  制服を改造したりインナーを変えるなど、工夫している
3軍、Cランク特徴】
  文化系、または卓球部に所属
  修学旅行や体育の時間にグループ分けで余る
  外見を気にしない(髪型や眉毛の手入れ、ニキビのケアをしていない
  異性とコミュニケーションを取れない
  オタク趣味である


私も自身の経験を振り返ると確かに、上記の項目に該当する生徒はいわゆる「1軍」「3軍」としてそれぞれのポジションに固定されて、確かに一定の上下関係が存在していたように感じる。もちろん簡単なチェックリストに過ぎないので、必ずしも当てはまるわけではないが、上記の項目の諸要素は何となく正しいような印象を受ける。

本書では、上記に見られるクラス内の上下関係である「スクールカースト」を、いじめとの関連という観点からではなく、「スクールカースト」そのものの実態を調査・紹介している。「スクールカースト」の定義は以下の通りである。(pp.29) (森口朗「いじめの構造」の直接引用のようです。)

スクールカーストとは、クラス内のステイタスを表す言葉として、近年若者たちの間で定着しつつある言葉です。従来と異なるのは、ステイタスの決定要因が、人気やモテるか否かという点であることです。上位から「一軍・二軍・三軍」「ABC」などと呼ばれています。


スクールカーストそれ自体はクラス内での上下関係であり、それがいじめそのものとは一致しないのが注目すべき点だと思います。いじめは身体的・精神的な苦痛を伴うものですが、スクールカースト自体は単なるクラス内の位置づけであり、各ポジションに割り当てられた生徒が苦痛を感じているとは限らないという特徴を持ちます。
自身の経験を振り返っても、やはり(卓球部を除く)運動部は積極的に発現する場面が多い記憶があるし、彼らの主張が多少強引でも押し通ってしまう場面を見た気がする。逆に、文化系の部活に属していた生徒は損な役回りを引き受けがちだった覚えもある。ただし、彼らがそれらを苦痛と感じていたかと言われると、そうではなく「キャラ的にしょうがない」と納得していた気がするし、各グループ内ではそれなりに楽しそうな学生生活を送っていたように思える。

ただし、スクールカーストそのものはいじめとは一致しないものの、いじめと重ねあわせて考えると、やはり3軍と呼ばれる立場の低い人がいじめの対象になることが多いという。この点では、スクールカーストはいじめを助長する人間関係とみなすことができる。実際に下位グループに属していた経験を持つ生徒の声が記載されていたが、グループ内では楽しかったもののグループ間での接触が起こる際には陰鬱になったようである。また上位グループに属する生徒は、優越感に浸る場合が多いようだが必ずしも幸せというわけではなくそのポジションにふさわしい振る舞いが求められるため窮屈さを感じていたという声が記載されていた。
しかし、スクールカーストは生徒が自主的に意図して形成しているものではない。「にぎやか」で「気が強く」「異性の評価が高い」生徒が自然と上位グループを形成していき、そうではない「地味」で「目立たない」生徒が自然と下位グループとみなされていく。これらは、生徒のキャラクターに依存するものであり生徒自身が変えようとして変えられるものではないことが直感的にもわかる。自然と形成されていくものにも関わらず、その人間関係は生徒にとって不快な環境を生みかねない上下関係となり、彼らの学生生活に大きく影響していくのである。


上述のように、スクールカーストそのものはいじめではなく、彼らの趣向や帰属意識により自動的に慶されていく人間関係である側面を持つので、教師はこれらを「いじめ」として対処することは非常に困難のように感じる。実際に不平等な仕事の押し付けがまかり通ったり、一方的にバカにする場面が見受けられるものの、下位に属する生徒が苦痛を感じていなければ、現状のいじめの定義では対処することができない。いじめの発生源であるとわかっていつつも、問題が起こるとは限らないし、生徒同士も無意識で完成させた人間関係であるために、教師が介在して対処していくことは不可能のように思われる。

興味深く感じたのが、教師から見たスクールカーストの映り方である。スクールカーストは生徒から見れば不愉快で固定的な上下関係であり、彼らの学生生活を考えれば危険な環境であるが、教師はこれらの関係を「コミュニケーション能力の現れ」と見なし、問題視していない、故に助長させてしまう側面を持つようである。上位グループに属している生徒は、教師にとって「にぎやかで活発な生徒」とみなされる場合が多く、また、彼らの意見は押し通ってしまうので一種のリーダシップ・カリスマ性・コミュニケーション能力と映る。そして彼らは自己主張が強く手がかかることから思い入れが強くなりがちで、教師からすれば「かわいい生徒」と映りやすく、優遇されてしまうケースが多いようだ。一方、下位グループは教室内において自己主張がなかなか許されないために、教師から見ると「よくわからない・何も考えていない・決断力のない生徒」とみなされてしまうことがあるという。彼らは立場上自己主張がしづらいために周りの意見に流されがちであり、それ故に教師は自己決定を避ける怠慢な生徒のように映ってしまうこともある。これらを踏まえた教師の言動はさらにスクールカーストを助長させていくことになる。

生徒にとっては「権力関係」、教師にとっては「能力の顕在化」とみなされるスクールカースト。これらの具体的な対策は未だ見つかっていないようである。しかしながら、教師はスクールカーストの存在を知り、きちんとその内情を考慮しなければならないだろう。
非常に興味深く拝見できる一冊でした。



鈴木翔『教室内カースト』光文社新書

2014年2月7日金曜日

英語を勉強する意味 デューイ『民主主義と教育』を読んで

大学院の授業にて、デューイの『民主主義と教育』を読む機会がありました。
以下は、授業の最終課題として書き上げた感想を、ブログ用に整えたものです。

テーマは「どうすれば英語を勉強できるようになるのか」です。

どうすれば英語を勉強できるようになるの?


-個人内における英語の「価値」-


 私たちは好きなことであれば、何でも覚えることが出来ます。どんなに外見が類似しているガンダムだって、私は勘違いすること無く名前を挙げることが出来ますし、ちょっとマイナーな芸人であるラーメンズであれば、そのコントのワンシーンをパッと見れば、そこでのセリフをほとんど再生することができます。このことから考えると、私たちの頭は大容量ハードディスクであり、ものすごい効率で情報処理が可能なスーパーコンピュータと呼べるでしょう。

 好きなことだったら何だって覚えられる・処理できる・向き合える一方で、私たちは「勉強」となると受け付けなくなるから不思議です。好きな歌ならば、その歌詞・メロディー・背景情報まできっちり覚えられるのに対し、例えば「教科書の英文暗証」には大変な労力を割かなければいけない印象があります。私個人の話をするならば、ラーメンズのコントならその言い回しを一つ一つ記憶できるのに、英語のコロケーションはいつまで経っても身につく兆しはありません。

 さて、前述の「ガンダム」や「ラーメンズ」は一般的に趣味というカテゴリーに含まれると思います。趣味はあくまで趣味であり、「この趣味を使って一儲けしてやろう」なんてことは考えておりません。趣味は、直接的には利益とは結びついていないように感じます。趣味は利益を生じないのに関わらず、私たちは趣味ならば他人の監視や明確な目標や理由が無くとも延々と繰り返すことが出来ます。端から見てみると、「何でそんなにやってるの?」と疑問が浮かぶほど趣味に没頭する人はそうそう珍しい話でもないので、趣味への没頭は精神的な異常による固執でもなさそうです。
 また、他人の趣味に対して、仮に理解は示せるとしても、完全に共感して一緒に楽しく延々と繰り返せるケースは多くないことから、どうやら趣味に対する考えは万人共通ではないことが伺えます。つまるところ、趣味には個人の中で、特有の「価値」が生じているようです。(以下では、万人に共通する価値は括弧なし、個人内に生じる特有の「価値」については括弧付けで表記します。)
 趣味には自身の中に「価値」が確立しているので、どれだけ繰り返してもなかなか疲労感は蓄積せず、むしろ心が開放される感覚すら覚えるようです。つまり、自身の中で「価値」が生じているので、やればやるほどその価値に触れられ、満足感が生じるようです。その満足感のために、私はラーメンズのDVDを何度も繰り返し見れますし、トランペットの練習は唇から出血するまで行ったこともあります。
 一方で話が勉強となると、通常多くの人は長続きしない、もしくは非常に困難で辛いものというイメージが生じがちです。まずは身体的負担について考えてみましょう。その苦痛は、趣味が継続的に行えることを基準に考えるならば、並大抵のものではないように思えます。前述の「口から出血しようともトランペットの練習なら行える」という事例を基準とするならば、「おとなしく座って本を読む」なんて、圧倒的に楽な作業に思えます。しかし、実際にかかる身体への負担という側面で考えると、趣味に対して勉強が続かない説明はつきません。
 趣味に対して勉強が続かないことを、身体的負担で説明出来ないようなので、価値という観点で考えてみましょう。ここでは英語を例に挙げてみます。英語を勉強すると、「外国人とも会話でき世界が広がり」、「洋楽・洋画をより楽しめ」、「扱えるだけでカッコよく見えます」し、「受験や就職で有利」と、もはややらない理由が考えられないくらいいいこと尽くしです。少なくとも、私の趣味「(マイナーなお笑いコンビの)ラーメンズのコントを暗記する」ことのメリットは絶対に及ばないでしょう。このようにメリットや理屈では圧倒的に英語を勉強する意義は強い。それなのに勉強となると継続は困難になります。
 勉強になると実践できないのは何故なのでしょうか。それは勉強に対しては、自身の中で「価値」が生じておらず、その必要性を体で感じていないのかもしれません。結局は「頭でわかっていても、体で「価値」を感じていないと続かない」と、最近考えるようになりました。デューイは『民主主義と教育』の中で、学習は生徒の日常の中で生じる疑問で行わなければならず、成長は世間に対する対応力を高めていく変容であると述べています。私はこの本を読み進め、最終的に「勉強は頭の中でできることではなく、体・心までついてこないとできない」という考えに行き着きました。
 近年、私たちは大量の情報・テクノロジーに囲まれ生活を送っており、もはやこれら無しでは生活出来ないと感じています。しかし、我々は本・ネットの中に生きているわけではなく、あくまで道具として用いることにより実生活を行っているので、どれだけこれらの道具、科学が発達しようとも、結局のところそれを用いる人間の身体や精神は伴います。すなわち、身体や精神の領域から目を背け「学習」を科学で語ろうとしても限界を迎えるように感じました。つまるところ、世間一般で言われている英語学習のメリットを山ほど並べたところで、そこに人間の体や心が「価値」を見出さなければ学習の継続にはたいへんな労力を伴います。



 ではどうすれば、教師として教壇に立った際に、生徒の中に英語の価値を確立させることができるのでしょうか。前述のとおり、単に英語のメリットを理解させるだけでは頭の次元までしか通用しないために効果は薄いことが予想されるため、心まで動かさなくてはいけません。しかし、多くの人が経験から何となくわかるでしょうが、人の心を動かすのは容易なことではありません。今回考えた3つの方法を以下で紹介しますが、これらは一朝一夕で実践できることだとは考えていません(ましてや実際に教壇に立ったことのない、大学院生のおべんちゃらに過ぎない程度です。)よって、以下では教壇に立つ上での心構えとして掲げながら、きちんと生徒一人ひとりと向き合い対応しなければならないことを前提として紹介します。


 まず1つ目の方法は「英語そのものの面白さから英語の価値を生じさせる」ことです。イメージとしてはテレビ番組のアメトーーク、実際にはないのですが「英語芸人」です。テレビ番組アメトーークで、毎週テーマごとに集められた芸人が自分たちのテーマをもとに面白おかしく展開されていくバラエティ番組です。この番組では数多くのテーマを取り扱うため、テーマによっては一切の背景知識がない場合があります。しかし、「身近でない」・「背景知識のない」ようなテーマであるのにかかわらず、出演者は面白おかしくそのテーマを紹介し、笑いをとります。番組が終わった際には、「何か面白そうだな」と思ってしまいます。私は、このアメトーークの構図が、英語の内容面に重きを置く英語の授業と非常に通じていると感じています。つまり、英語のマニア(芸人)である教師がその内容の面白さを視聴者である学習者に伝え、学習者内に面白さという「価値」を引き起こし、授業に引き込む。笑いの有無に関わらず、そこで行われている行為は類似しているのではないでしょうか。

 この方法で教師に求められることは、徹底した教材研究だと思います。この教材研究はひとりよがりであってはいけません。「視聴者である学習者がどのような内容なら関心を示してくれるか」、「どのように運べばきちんと楽しんでもらえるか」、「どう使わせたら生徒は家で教科書を見返させられるか」、教材研究には常に視聴者である学習者を想定しなければなりません。単なる教師の目線からだけではなく、まだ英語習得の長い道のりのスタートラインに立っている生徒まで近づき、教材の下見を行い、丁寧に先導しなければ生徒は迷子になってしまい、ゴールを見失い、英語が嫌いになってしまいます。英語という側面から生徒を引っ張るためには、「綿密」且つ「視野の広い」教材研究が必至なのではないでしょうか。


 2つ目の方法は「個人内の別の価値観と英語を(無理やり)関連させる」ことです。塾での個別指導では、英語というか勉強に全く興味のない生徒を受け持つことが多々あります。以前、音楽が大好きでバンド活動を行っておりベースを持つと眠れなくなるものの、英単語帳ターゲットを持つと10秒で眠れる的なことを豪語する生徒を塾で担当したことがあります。彼が高校3年生になった4月当時、彼の中では「大学に行くこと」は実感がなかったようで、英語を勉強する意義が見いだせず、口を開けば「英語が嫌いだ、やりたくない」と、学習は継続できる状態ではありませんでした。(さすがにオーバーに書いているのか...?いや、彼は「単語テストの追試が嫌すぎて退学してやる」とも言っていましたから、言い過ぎではないと思います。笑) 彼はバンドマンだったのですが、たまたま私もバンド経験者だったので、よく生徒が練習している曲について話が盛り上がったのですが、彼の身の回りの曲は英語の歌詞ばかりで非常に違和感を覚えました。「英語を勉強すれば自分の演奏している曲のメッセージがわかるよ」と伝えると、彼は半ば「仕方ないか」といった様子で単語テストに精を出すようになり、学習が少しずつ積み重なるようになりました(英語を勉強し始めた理由をこれだけとは言えませんが、1つの理由にはなっていたと思います)。今のは非常に限定的な一例ですが、中学生・高校生である生徒の中には既にきちんと価値観が生じている場合が多く、彼らの既存の価値観と教科の関連を教師が示すだけで、彼らは「英語の価値」を確立してくれるかもしれません。
 この方法には、若者文化に精通していたり、幅広い趣味・教養が求められます。教室の後ろでたむろするやんちゃな生徒に対して魅力的な洋楽を紹介できるための音楽の教養であったり、部活しか頭にない生徒に対しサッカーの英語サイトを紹介するための情報網であったりと、教師は広い領域の文化に精通しておくと、ひょんな場面で彼らの学習につなげることができるかもしれません。


 3つ目の方法は「(英語という要素を取っ払い)自尊心のために使用する」ことです。しばしば勉強に取り組めない子の多くは、特に勉強に対して苦手感情を強く持っている場合が多いように感じます。そのような場合、ひとまず英語という勉強が成功する感覚を覚えさせ、取り組みに対して楽しさを見出してもらうことは、一つの方法だと考えます。これは英語という教科にとどまらず、すべての勉強・または掃除等の生活全般に当てはまるのではないかと思います。以前達人セミナーで、上山先生が「生徒が家庭学習に取り組むためには、その成果が見られるような仕掛け作りをすることが重要です」とおっしゃっていました。そうすることで、生徒の取り組みが明示的に残り、自分の成果を自覚することで自尊感情が生じるそうです。さらにそれらが褒められたりすると、それはそのまま「英語は褒めてもらえる=他人から評価され得る「価値」」へと変容する可能性があります。この方法は、生徒自身が自分の成長を感じられる場合だけでなく、生徒が認めている周囲の人から評価されることで、その効果を強く発揮する側面があるように思われます。ただし、評価してもらえる人物がだれでもいいかというと、そうではないように思われます。例え実際に地位のある校長先生から褒められたとしても生徒がその存在を高く感じていない場合はあまり効果を発揮しない可能性があります。できれば尊敬されている教師・もしくは親しい友人から評価され得る機会を作ってみることがいいのかもしれません。生徒に「俺って英語なら、やればできる」という感覚、「英語なら評価され得る!」という仕掛け作りで、生徒の中に「価値」を生じさせる要素は、授業に取り入れてもいいのではないでしょうか。(もちろん、これについては過剰な競争性に陥らない注意が必要だと思います。)


 とつらつらと述べてきましたが、振り返って思うのは結局のところ、相手は人間、しかもその価値観ですから、本来は直接操作することが出来ないものです。生徒が英語に「価値」を見出すことには3ヶ月、長ければ3年かかってしまうかもしれません。
 しかしながら、彼らの心に英語の「価値」という種が根付かなければ、教室でいくら良い肥料や水を与えたところで成長してくれません。体で必要性を感じていなければ、学習は継続しませんし、仮にやったとしても、直ぐに頭から抜けてしまいます。教師は試行錯誤しながらも、生徒の心に英語の「価値」が根付くのをじっくりと待たなければならないのかもしれませんね。