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2015年12月9日水曜日

「愛があれば金なんて関係ない」わけない


 「いい曲だから、聞いてみてよ!」と紹介され、ある曲を聞いてみました。その曲では執拗に「友情や愛さえあればいい、金なんていらない」と繰り返されていました。また「心が貧乏な金持ちにはなりたくない」的なフレーズも連呼されていました。正直、かなりの違和感を覚えました。初めは、「私の性格が良くないからかなぁ」と思っていましたが、明確な理由がいくつかありました。

そもそも説得力がない

 まず一番の疑問点は「金はいらない」と歌っているそのアーティストは、多分そこそこ儲けていること。確認できませんが、おそらくある程度の金はもっています。その上で「金はいらない」と言っているわけです。だから、その立場を踏まえて、きちんと歌えば「ある程度の金はあった上で言わせてもらうけどさ、友情とか愛とか大切だよ」という感じが否めません。「俺の気持ちを歌ってくれてる!」と、お金がない人が鵜呑みにするのは勝手だとは思いますが、その人はお金を持ってます。「スピード違反は危険です、止まりなさい」と猛スピードで追いかけるパトカーぐらいの説得力です。説得力がありません。

愛と金は関係がない

 次に、「愛・友情」と「金」がそもそも関係ないと思います。「金よりも愛」とかよく聞きますが、「金」があれば「愛・友情」を持つことができないのかと聞かれれば、別に関係ない気がします。「カレーとバレー、どっちが好き?」くらい関係ない気がします。確かに、金持ちも普通の人間です。中には性格が悪い、友達のいない人がいるのも不思議ではないです。が、それは「金」が原因ではなく、そもそもの性格が原因です。もし仮に「金があると、愛・友情が持てず、幸せになれない」というのであれば、ガンガン増税してしまいましょう。諸悪の根源である金は無くなり、みんなが幸せになるはずです。
 もちろん、「お金があれば絶対に幸せになれる」なんてことを言うつもりはありません。お金があっても幸せを感じられない人は大勢いると思います。が、その多くは「お金があっても不幸」であり、決して「お金があるから不幸」ではないのではないでしょうか。正直、お金はたくさんあるに越したことはありません。

まとめ

 ここまでを総括すると、私がその曲を好きになる条件は以下の通りになります。

1 貧乏な路上シンガーが
2 『お金は別問題として。ひとまず愛や友情は大切だと思います』と歌う



 これを想像した時、「あぁ、やっぱり曲調だな。」と思いました。結局、音楽の趣味なんて個人の勝手で、他人がとやかく言うのは野暮なことでしょう。粋でないことをして、反省しています。ちなみに、この記事を書くために20回くらい繰り返し聞き、少し好きになってしまっているのはないしょです。

2015年11月22日日曜日

テロに対する考え

2015年11月にフランスでテロが起こりました。
被害は大きく、悲惨な事件だったと思います。

私自身の理解と考えを深めるために、
テロに対する考え方をまとめます。

先に明記しておきますが、
テロは恐ろしく、全く関係のない人々が被害に遭います。
いがみ合っている当事者同士ではないので、
被害に遭う側からすればやってられません。
テロは許されない行為であると思っています。
そう考えるうちに、そんなテロが何故起こるか、不思議に思えてしまいます。

テロは最終手段である

以下は根拠のない個人的な妄想です。
(ちゃんと調べればいいのでしょうが、、、)

例えばある小さな国が資源を持っていて、
大国がそれを欲しいと思います。
ちゃんと納得する形で取引できればいいものの、
大国からすれば、可能ならタダでぶん取りたいと考えます。
小さな国は一方的に攻撃を受け、
このままでは全てを奪われてしまう。
残された選択肢は2つ。
「完全に諦めて従い続ける」か、「姑息な手段でも嫌がらせをして引かせる」か。

「諦める」を選択すれば、大切なものを全て失います。
「どうせ失うなら、対抗するしかない」という心理もわからなくはないです。
「俺をやると面倒臭いぞ!」と示すため、
「正面からは無理でも、お前が守れないものを攻撃する」という
手段を取っても、不思議ではありません。


国際情勢では力関係が明確であり、
大国の論理で回ってしまっている部分は大きいです。
結果、小さな理由をピックアップし、
「正義」と称して、小国から一方的に利益を奪い取ります。
しかし、「正義」なので問題はない。
小国には選択肢がないように思えます。
結果的に、テロにつながっているのかなと。

これだと、「テロを終わらせる」のは
大国側が引くか、
小国を根絶やしにするかの2択です。
今は完全に後者の流れでしょう。

「宗教的な問題」とも言われていますが、
他人に自分の価値観を押し付ける、なんてのだけが理由では正直考えられないです。
もちろん、私が信心深くないのが理由なのかもしれませんが。

というわけで、
(仮に私の妄想の説で言えば)
結局のテロの原因は、大国の欲なのかなぁと思います。
どうなんでしょう。

テロを無くす動きが見えてこない?

今の報道を見ていて、正直わかりにくさを感じます。
私の情報収集能力の低さが原因なのかもしれませんが、
わかりやすく発信されたものがパッと手に入らないのも問題で、
「何が原因で、誰が悪いのか」がぼかされている印象を受けます。
強調されるのは「テロをやる側が信じられない」「許せない」であって、
テロが何で起こっているのか、根本的に解決をしようとしているように思えない。
今、大国は酷いことをしているのではないか、と不安になります。
あくまで自分の勉強不足と妄想が原因ではないか、とも思っていますが。

というわけで、自分が何ができるわけでもないけれど、
どうすればテロが無くなるのか、
最近ボーッと考えています。

「趣味を仕事にする」に対する見解

教師という仕事をしていると、生徒に夢を語られることがあります。

非常に喜ばしいことです。
若くして夢を見つけることができたことは幸せなことだと思いますし、
それに向かって努力もしやすくなりますし、
その想いが強ければ強いほど
力になってやりたい!是非叶えて欲しい!
と、自分のことそっちのけで、サポートします。

ただし、全てを全力で、というわけでもなく、、、
実際、プッシュに躊躇してしまう「夢」がいくつかあります。

今回は、超個人的に!私が夢をプッシュできないケースを、「夢」(進路)の種類と共に紹介します。

 ※あくまで超個人的で、原因の多くは自分の知識の無さに由来している可能性が高いです。


ケース1「才能があるのか、よくわからない」


個人的に、「音楽で食っていきたい」とか「芸大に行きたい」は
非常にプッシュしづらい進路の一つです。
率直にその理由を言うと、
「あなたには才能があるのか、素人の私には正直わからない。」

芸術に関する業種は、人を魅了しなければ収入がありません。
人を魅了するためには、努力だけではなく、ある程度才能も必要です。

もちろん、プロだって初めから完璧ではないです。
何度も何度も、人から拒まれ、心を折られ、苦渋を飲みながら上達していくものです。
初めから爆発的な才能があるパターンは少ないでしょう。
その進路を進むうちに才能を開花し、いずれは成功するかもしれない。

しかし。
教師の願いとして、「生徒には不幸になってほしくない」。
どうも、無責任に「行け!」なんて言えないのです、、、
実際、音楽専門学校等、進路情報を見てみると、
就職先の企業は書いてあるものの、
就職率などの数字が書いていない場合が多く。
「書いてないってことは、悪いのかな、、、」と思わざるを得ません。
どうも、芸術系の進路はプッシュを躊躇してしまいます。

私は過去、吹奏楽を経験し、バンドマンも経験し、
多かれ少なかれ美術館にも足を運んでいますが
精通しているなんて思いませんし、
でも、さすがに「光るものがある」とか、そういうところはわかりません。

という理由で、私は芸術系の進路に対しては
頑なに進路変更を強要することはないにせよ、
二つ返事で「やってみろ!」とは言いづらいんですよね、、、
「夢を叶えよう!」とか言っておきながら、
実際にはドギマギしてしまう葛藤が、芸術系の進路にはあります。
人を魅了するって非常に厄介です。


ケース2 「『やりたいこと』=『仕事』じゃない」


芸術系、ファッション系、芸能系で感じることが多いのですが、
「〜が好きだから、〜になる!」とかいうパターンです。
正直、聞いている方としては「えっ、それは仕事じゃなきゃダメなの、、、?」と思ってしまうことがあります。


いきなりですが、私はカワハギの肝が好きです。
正直、たまらなく好きです。
もし叶うなら、洗面器にカワハギの肝を敷き詰めて、顔を埋めたいくらい好きですし、
歯ブラシのチューブを捻って出てこないかなとか思います。
( 実際にやったら、超絶キモいのでしょうが。)

だけど、もし
「カワハギの肝だけ40年食い続ける生活」と
「半年に1回しかカワハギの肝を食べれない生活」ならば、
断然後者を選択します。
毎食、食っていたらさすがに嫌いになりそうですし、
大好きな肝を嫌いになりたくはないです。
たまに食べるから、幸せなんだろうな、という感覚もあります。
だから、やっぱり後者を選びます。

「趣味を仕事にする」って、「カワハギの肝だけを40年間食い続ける生活」なのではないかな、と。
きっと毎日向き合っていると嫌気が刺すことがあるかもしれません。
大好きだったものが好きではなくなる可能性すらあります。
「趣味」だから良いのであって、そのまま趣味として大切にしていくことはできないのかな、
安定した職をさらっとこなして、「趣味」に生きるという道もありますし、
それも相当幸せだと思います。
無理に「仕事」まで飛躍させなくていいんじゃないの?」と思ってしまいます。

もちろん、偏食家であれば話は別です。
「断然、「肝40年縛り生活」でいけます!」とプッシュされれば、
まぁ、そういう価値観もあるか、という理解もあります。
ファッションそのものをこよなく愛していて、
それが「自分の為」ではなくて、「大衆の為」になっても、
「自分」が受けいられられなくても、それに関わっていくだけで幸せを感じるレベルなら、
言い換えれば、自己満足の領域ではなく、一方的な愛で構わないというのであれば、
「職にしてみたらどうだろうかなぁ」と思います。
が、やっぱり自己満足でやりたいレベルのケースは多いのではないでしょうか。

「趣味としてとっておけば、、、?」と言いたくなってしまうことは多々あります。


ケース3 「逃避しているだけでは、、、」


専門職(芸術・芸能系、ガテン系、技術職)の、一般教科全般が不必要な業種に多いのですが、
いわゆる「勉強が必要なさそうに見える業種」に対して逃避を感じることがあります。
「『夢がある』と言っとけば勉強しなくて済む」的な。
特に、「夢がある」と言っているものの、それに向かって努力が見られない時に。

実際、勉強が大好きな人は非常に少ないです。
私自身、勉強は常に楽しいわけではないです。
やっている中で、「おっ」というタイミングがたまにあって、
元々ストイックな性格と好奇心が旺盛だったのもあり、
大学院まで進学してみましたが、
基本的には面白くない勉強は多いです。
(余談ですが、それを面白くプレゼンするのが教師の仕事の一つだと思っています。)

それを逃げる口実に、夢を使ってみる、というのをたまに見かけます。
実際、美容師さん等と話をしていて、
「勉強が苦手で、 ファッションとかそういうのが好きだったから。
 今はそれなりに幸せだよ。」
という話を聞くので、全否定はしません。
が、それが妥協や逃避で始まるなら、少しもったいない進路かなぁとも思います。

そして、その先の道が「楽」なわけではありません。
「今を楽して、将来苦しむ」が
「今(3年間)を楽して、将来(40年間)苦しむ」だと理解しているのかなぁ。
私の父はいつも「もっと勉強しとけば」と言っていました。
実際、そんな大人は少なくないです。
もちろん、昨今「高校をしっかりと勉強したら将来安泰」という保証はありません。
ただ、広がった道を狭めるのは簡単ですが、切り捨てた道を引き返すのは大変です。
勉強してみたらいいのになぁ、と思うシーンは多いです。

もちろん、「勉強以外にも大切なことがある」、そんなの当たり前です。
「勉強と並行でできないの?」と思うだけです。
というわけで、「逃げ」で「夢」を語って欲しくないと思います。


ケース4「カリスマに魅了されているだけなのでは、、、」


これはいくつかピンポイントで申し訳ないです。
好きな人に憧れてその業種に興味を持つのは、どの世界も同じです。
ただ、競争率やら安定性やらをあまりにも軽視しているパターンがあります。

まず「Youtuber」。
広告料で稼ぐ、しかも既存の動画と一風変わったものを提供しなければ価値が出ない。
それを延々と続けなければならない。
それほどの魅力とアイデアがあるのか、要はカリスマ性があるのか。
ちょっとやそっと「ちやほやされたい」程度で、仕事は務まらないと思います。
しかも、勉強も同時並行で進めることはできる気がするし、
50代でYoutuberって務まるのかな疑問です。
逃避しているだけではないかな、取り返しのつかないことにならないかな。
先生はちょっと心配です。

次に「声優」。
アニメが好きなのはわかるんだけど、作る側に回るのはわけが違います。
最近の若い子がいう「声優」はメディア露出も多い人に憧れているパターンが多く、
それはいわばルックスがかなり鍵を握っている気がします。
好きで憧れるのはいいけれども、人を惹きつけるものを持っているのか、
先生はちょっと心配です。

次に「カフェ開きたい」系。
「開く」のが夢なら、お金を貯めたらできます。
問題は「生計を立てること」。
人を集めることができなければ、カフェは続けられません。
夢を語るなら「カフェを開く」ではなく、せめて「カフェを営業する」と言ってほしい。
「夢」と「生活」は別問題です。
先生はちょっと心配です。


まとめ

ここまで話していると、
「結局、あなたは公務員やサラリーマンしか推していないじゃないか」と思われるかもしれません。
実際、そうだと思います。
どうしてもそうなってしまう理由は、その道は見てきたので、その歩き方なら教えてあげられるから。
実際、芸術系とか専門職とか、進んでみれば、どうにでもなるのかもしれません。
結局、無知が由来する、公務員のつまらない戯言にすぎないのかもしれません。

仕事は「お金」をもらうためにすることです。
何故お金が発生するかといえば、基本的には誰かが払うからです。
それは大きく分けて2パターンあって、
「人の嫌がること・できないことを代わりにやる」パターンと
「人がお金を払いたくなるほどのことをやる」パターン。
世の中の仕事は基本的に前者です。
後者は才能やカリスマ性に大きく委ねられます。

どうも職業柄「夢を見つけよう」と言うことは多いのですが、
そうは言うものの、幸せになって欲しいという根底の想いがあって、
結果、「夢を語らせておきながらグダグダ言いたくなる」という葛藤をまとめてみました。
あっ、でも基本的に私はどんな夢もプッシュしますよ!(綺麗事感ハンパないけど。)

駄文、失礼します。

2015年9月19日土曜日

説得力の条件


 私たちの生活に、「他人を説得する場面」は多くないかもしれません。しかし、説得力を持てば、他人を思い通りに操れたり、重要な場面を切り抜けることができることができるでしょう。生徒には是非とも、説得力を身につけ、社会で不自由さを感じる場面を少しでも減らしてやりたい、というのが私の願いでもあります。  また、教師という職業は、生徒や保護者に対して(もちろん「傾聴する」というのも重要なのですが)「伝達する」ことが仕事の核なのではないでしょうか。特に、生徒指導では社会のルールを教育する過程で説得しなければならない場面は多々、遭遇するものです。さらに、「授業を聞かせる」という側面にはある種、説得力が求められるのかもしれません。 今回は、丹野宏昭・児玉健『人狼ゲームで学ぶコミュニケーションの心理学』を基に、説得力について学校という場面を自身で考えながら簡単に紹介します。




説得力の4つの基本要素

 説得力には4つの基本要素があります。以下の要素を意識すれば、説得力を獲得することができ、相手を思い通りに操ることができるかもしれません。


⒈ 「損得」

 単純に「説得を受け入れれば得をする」ということを示せれば、説得力が得られます。よって、説得力を獲得する際には、賞罰の提示を意識することが有効です。  英語の授業で言えば、「この表現を身につければ、こういう場面で活用できるね」といった引っ張り方は英語学習の「得」を強調した説得、「これをやっておかないと、テストで困るよ」といった引っ張り方は「損」を強調した説得に当たるのでしょう。


⒉ 「好感度」

 単純に「説得してくる人が好き」ならば、説得力が得られます。よって、説得力のある人間を演じるためには、まずは魅力的であることを意識することが重要です。  確かに、同じような生徒指導・授業展開をしても、生徒がついてくるかどうかは大きく違う場合があります。言い方等もあるのかもしれませんが、やはり生徒からの好感度という要素は少なからず影響しているように感じますし、若い教員としては「ただ歳が近いというだけで好感度を得られていて得している」という場面を非常に多く感じています。  「説得力を保つために魅力的であれ」というのはわからなくもないのですが、少し厄介なのは「魅力」というのは人によって定義が違うため、自分が目指す魅力的な人間像が生徒の持つそれと一致しない場合があったり、特定の生徒だけ特に嫌悪感を示してしまう場合があります。ただ、だからといって生徒に媚びていくのは魅力的とは異なるので、やはり自分の出来る範囲で「魅力的であろう」と思えばいいのかもしれませんね。私は現在、「身体的な強さ」に魅力を感じる生徒を多く持っているので、少しずつ体を作っています、、、効果があるのかはわかりませんし、完全に娯楽としての領域なのですが。


⒊ 「専門性」

 トピックに関する専門的知識・技能・経験を示せれば、説得力を得られます。なお、受け手が専門性を判断する要素は学歴職業経験度根拠の明示ユーモアの有無等があるそうです。よって、実際には知識等が無くても、ひとまず慣れている雰囲気を醸し出すことが重要です。 生徒指導に関しては専門性というよりも経験面を強調し、例えば「社会では通用しない」という言葉を使う際には、実際に通用しなかった経験などを加えることができれば、説得力が増すのかもしれません。教科指導では、言わずもがなという感じがしますね。


⒋ 「一貫性」

 単に「嘘をつかない」「ブレない」という印象を持たれていれば、説得力を得られます。これらの印象は、その個人のパーソナリティや関係性にも強く依存するので、普段からの言動が重要です。 生徒指導で重要なことの一つはやはり一貫性だと感じています。「ルールを守る」ことを強調している教師の判断に一貫性が不足している場合はやはり、説得力に欠けているように感じられます。教科指導でも、その単元や授業の背景にある教師の哲学や信念が一貫している先生の授業は本当に説得力があるように感じられます。お世話になった理科の先生は「論理的に、因果関係を踏まえ、積み上げて考える力を」、世界史の先生は「全ての知識と正しさは歴史上、作り上げられた限定的なものに過ぎず、常に問うていく力を」といった信念をお持ちで、その一貫した信念は授業内に説得力をもたらしていたと感じます。




 以上が、説得力の条件となります。まとめるにあたり、元の本での記述を一部、拡大解釈している自覚があります。ご了承ください。  本書ではソーシャルスキルトレーニングとして、「人狼ゲーム」のルールや展開が紹介されています。「人狼ゲーム」では基本的に他人と騙し合うのがゲームの展開なのですが、その本質は「他者の説得」と「嘘を見抜く」の2点だそうです。生徒が社会に出ていく上で、どうか身に付けて欲しいスキルだと思うので、機会があれば、上手く活用したいと考えております。






以下は、記事に盛り込もうと思ったけれど、流れに組み込めなかったものをまとめておきます。


相手によって変わる説得スタイル(おまけ)

 効果的な説得は、説得される側の人によって違います。よって、相手によって説得のスタイルを変えることが大切です。以下では3点紹介します。

一. 男性には、高圧的になるなかれ

 男性は高圧的な説得に対して、非常に嫌悪感を示すそうです。女性に対してなら効果的なのかどうかはさておき、男性に対しては高圧的な説得は特に避けるべきだと意識しておくことが大切です。

二. 知性の高い人には、非論理的になるなかれ

 知性の高い人は、論理の一貫性を重視している場合が多く、そのような人に対しては特に論理的な展開を意識して説得するべきでしょう。一方で、知識の低い人は「複雑さ」や「わかりにくさ」に専門性を感じてしまうらしく、例えその説得が非論理的でも、複雑そうな印象を与える説得が効果的なそうです。

三. 不安を抱く人には、救いの説得を演じよ

 不安を感じている人は説得を受け入れ辛い傾向にあるので、説得を始める前に、まずはその人が抱いている不安を解消することから始めるべきです。しかしながら、不安を感じている人は説得を受け入れ辛い状況にあるのと同時に、不安を解消させる欲求を強く持っていることから、その不安を解消する方向で説得をすれば説得が成功しやすくなります。とにかく、不安な人を説得する際には、その不安を分析し、「不安を解消するための説得」を考えてみるといいでしょう。


2015年4月15日水曜日

活動を行う前に確認したい3つの条件

この4月から新しい学校の教壇に立ち、改めて「生徒発信で授業を行うこと」の大切さを感じております。いつも思うのですが、今まで自分が受けてきた授業のスタイルや、大学・大学院で学んだ指導法がそっくりそのままの形で活用できることは稀です。私の趣味の麻雀で例えるなら、どんな配牌でも通用する決まりきった手順で戦っても勝てないのと同様、その場の素材から手筋を考えていかないと(新米教師の場合は特に)授業がうまく回るのを感じる場面は少なくなっていくのではないでしょうか。

一方で、そのまま活用してしまえそうな「指導法」という次元ではなく、その根底に存在する「留意事項」というポイントは、素材の生徒から授業を考案していく上で非常に参考になるかと思われます。よって、以下では、岡田栄司著「荒れ・しらけと闘う!英語授業の鉄則&活動アイデア」の中から、どのようなクラスに行こうとも意識したいポイントをまとめます。

『岡田式ディスカッション』から見る活動がうまくいく条件

岡田栄司著「荒れ・しらけと闘う!英語授業の鉄則&活動アイデア」の中では『岡田式ディスカッション』というテクニックが紹介されています。そのテクニックも然ることながら、個人的に押さえるべきはその基本的考え方だと感じました。本ブログでは、この本の中でまとめられていた生徒対象のアンケートについて記述してある部分を抜粋します。

ある年のアンケートの中で次の2つの質問について興味深い回答がありました。

①     「授業の中で自分の意見を言いたいと思うときはどんなときですか」
・ 他の人と意見が違うとき、自分の意見はみんなと違うなぁと思ったとき
・ 友達に自分の考えていることを知ってもらいたいとき、人に聞いてほしいとき

②     「授業の中で意見を言う気が起きないのはどんなときですか」
・ みんなが言いそうな意見のとき、同じ意見の人が多くいるとき
・ 周りがうるさいとき、ふざけているとき


これらの発言から、生徒が積極的に活動してもらうには以下のような条件がありそうです。

条件1
生徒同士の回答が重複しない活動であること


 まず、条件1は「生徒同士の回答が重複しない活動であること」です。これに関しては上記アンケートでの「みんなが言いそうな意見のとき、同じ意見の人が多くいるとき」から伺えます。著者である岡田先生は、この本の中で「ユーモアを取り入れる」という点を何度も強調しています。その理由について、「英語が使える生徒は活動の中で輝くのは当然であるが、ユーモアを取り入れると、逆転現象がおこり、英語が使えない生徒が輝ける場面を作ることができる」という旨を強く推していらっしゃいます。教室は通常、同世代の生徒らで構成されており、多くの子たちが似たようなものに対し関心を示す。そのため、単なる「Q&A」方式のペア活動等で終わらせてしまうと、やりとりの大半は似たりよったりしたものになりがちです。となれば、皆が同じやりとりをしているわけですから、多少の人数が抜けてもクラス全体の様子は大して変わりません。働きアリがある程度集まってしまえば、さぼってしまうものが出てしまうのと似たようなもので、このような「みんなが同じようなやり取りを求められる」という環境下では活動に参加しない生徒が生じてしまうのかなと思います。そこで、活動は常に「生徒同士の回答が重複しない」ように、そこに「ユーモア」という形で、何かしらの工夫する必要があるのではないでしょうか。ここでは岡田先生の具体的な言及は省略しますが、有名な先生の活動には共通して「ユーモア」や「アイデア」が含まれていますし、そこでは自然と生徒の多様性が発揮される授業形式が考案されているように思います。よって、活動が盛んに行われるためには「生徒同士の回答が重複しない活動であること」が重要な条件であると思います。

条件2
生徒同士が相互干渉を許容する程度の関係性があること


そして条件2は「生徒同士が相互干渉を許容する程度の関係性があること」です。これに関しては「友達に自分の考えていることを知ってもらいたいとき、人に聞いてほしいとき」から伺えます。本当にいい学校であれば、条件1だけで何とか機能するのでしょう。ただ、条件1が成立しているだけで、活動が絶対に盛り上がるわけではりません。私は過去に塾で楽しい活動を行おうとして、惨敗した経験があります。発想としては「問題演習ばかりしていて、どうしても集中力を切らしている生徒が多かったので、息抜き程度の楽しい活動を入れてやろう、これはゲーム性もあるし、盛り上がるぞ」というものだったのですが、見事に惨敗でした。今振り返ればわかるのですが、塾という環境では、生徒同士が自己開示することは稀で、個別で勉強に向き合うのが当たり前の空間でした。彼ら個人にはしっかりとコミュニケーションをとるような能力はあるのですが、如何せん環境は「学習を個人内で完結させることが一般的」でしたので、活動はなかなか盛り上がりません。また、「仲のいい友達」とは活動を行うのですが、学校が違う生徒とは相互干渉するのが面倒と感じてしまう生徒が多かったため、やはり活動としては成り立ちにくかったのでしょう。 よって、活動が活発に行われるための条件には、根底に「みんなの意見を聞き入れるよ、今後も仲良くやっていこうよ」という雰囲気が欠かせません。これ自体は活動ではなく、教室や学校全体で生じた、いわば活動の外側の要因になります。有名な先生は「クラスが一丸となる」「クラスのみんなは仲間」であることを一番に強調される印象がありますが、このような心がけが何よりも活動を支えているのかもしれません。多くの本ではここまで書かれていることは少なく(というよりもうっかり見落としがちであるため)、荒れた・しらけた学校で「言語活動」を全く同じ手順で導入しようとしてもうまくいかないことに繋がっているのではないでしょうか。よって、活動が盛んに行われるためには「生徒同士が相互干渉を許容する程度の関係性があること」が重要な条件であると思います。 


条件3
「その活動が学習の手立てとして役に立つということが生徒に伝わっている」


上記のアンケート抜粋では条件1・2しかわからないのですが、私の持論では条件はもう一つあるように思います。それは 条件3「その活動が学習の手立てとして役に立つということが生徒に伝わっている」ということです。持論なので、あまり膨らましませんが、私の経験上、単なる「楽しいゲーム」だけでは(特に賢くて少し冷めたところのある)生徒は積極的に参加しないイメージがあります。有名な先生方の活動は、そもそもきちんと「指導」があった上で、その活用の手立てとして「言語活動」が取り込まれていることが多いのですが、活動のアイデアを拝借して行う場合には、指導法が先行してしまうことで、活動だけが浮き足立ち、いまいち学習上有効ではない場合があります。このような持込みの活動を拝借して行ってしまった場合、ノリのいい生徒は遊び感覚で活動を行ってくれはするものの、冷静な生徒は何をやらされているのか違和感を覚えてしまうような気がします。よって、大前提として、教師は活動を拝借して行うのであれば指導との関係をきちんと踏まえた上で、その目的が生徒に伝わるように徹底的に授業を構成し、「その活動が学習の手立てとして役に立つことが生徒に伝わっている」というものが条件になると思います。 ただ、この点に関しては意識しなくてもいい先生も多くいらっしゃると思います。というのも、基本的には生徒は「先生の言うことは基本的に正しく、私たちの力を伸ばしてくれる」というイメージを持っていることが多いです。「活動はユーモアがあるし、生徒同士の仲がいいのに、斜に構えて参加してくれない生徒がいるのはなぜだろう?」という場合はこれが原因であると思われます。

 以上が、自分の反省を踏まえた「活動を行う前に確認したい3つの条件」でした。あまり触れませんでしたが、この本で紹介されている『踊る英語御殿』という活動はぜひとも取り入れていきたい素敵なものでした。

参考文献
岡田栄司著 「荒れ・しらけと闘う!英語授業の鉄則&活動アイデア」明治書店 

2015年2月15日日曜日

アドラー心理学から学ぶ 協調のクラスづくり

アドラー心理学から学ぶ
協調のクラスづくり
アドラー心理学って何?
 本項では「アドラー心理学の信念」VS. 「そうでないやり方」を3つ挙げることで簡単にアドラー心理学をまとめます。

信念の違い1

全員が協力して課題を解決することで、各個人が過去の自分より伸びることが目標
  課題に関して他人と競うことで、各個人が他の生徒より秀でることが目標

 最もわかりやすい違いであるのが、「最終目標」とそれに対する「アプローチ」に対する姿勢でしょう。アドラー心理学では、昨今話題の協同(協働・共同)学習のように「協力」することを軸に学習を進めていきます。また、成長の基準は他者ではなく、過去の自身と置くことで、周囲との競争を教室内から排除することを可能にします。この本では、競争の原理を完全に否定しています。
 やや言葉足らずな抜粋になってしまう恐れがありますが、教室から競争の原理を排除することで、生徒は1) 高い自己評価を持ち 2) 世界を信用している 3) 集団への所属感に満ちた =健康な状態になれる、ということが書かれていました。
 かなり言葉足らずですが、その各効用の説明をします。

 1) 高い自己評価をもつ
          
教室には競争はありません。常に過去の自分との比較になります。この場合、基本的には生徒は成長し続けますので、自己評価は下がりません。よって、「競争を排除すれば、生徒は高い自己評価を持てる」となります。

 2) 世界を信用している

          
競争のない教室では、比較するような他人はいないわけですから、教室内に争うような敵はいません。よって、協力の動きが自然と起こり、世界を信用する体制が育成されるようになります。

 3) 集団への所属感に満ちた

          
競争はないということは、落ちこぼれや優等生という存在は発生しませんので、不用意な疎外感が生じづらくなり、代わりに所属感が生じます。

 このアドラー心理学の目標設定は「教師がそう思う」程度では無く、徹底したものでなくてはいけない、というのがこの本では強調されていたように思います。しばしば「教室におもいやりを」という標語を掲げているものの、なかなか生徒に反映されていない教室を見るように、これは教師の信念こそ間違ってはいないものの、それに向き合う姿勢と方法論(評価体制)等に問題があるのではないでしょうか。この本でも書かれている通り、例え教師が「おもいやりを重視します」と言っても、まず基本的に教師という職業柄、学習しない生徒に対しては注意してしまうでしょう。また、重視しようとしている「おもいやり」に関しても、仮に生徒のやりとりからおもいやりが見られた場合に、それを評価してあげることは困難です。というのも、「おもいやり」が発生する場面というのは基本的に生徒間ですから、そこに教師が介入することはほぼ不可能でしょうし、教師に対するおもいやりは捉え方を変えれば媚を売っているように捉えられかねません(ちなみにアドラー心理学では「教師と生徒の立場は平等」を掲げているので、教師に対する「おもいやり」は「媚を売る」とは一致しない、とのことです)。結果的に教師が「おもいやり」を重視していると思っていても、結局のところ学習に対する態度に関してしか触れることが出来なければ、生徒たちはこれらの目標に向かっては歩みづらくなるでしょう。よって、この本の通りに「協調」をメインに置くのであれば、従来の教師のイメージを刷新し、全ての挙動に対して見つめなおす必要があるのかもしれません。

信念の違い2

教師は生徒と対等な友人として、学習が促進することに専念する
  教師は尊敬される立場であり、知識の伝達に重きを置く

 アドラー心理学では「競争を持ち込まない」を超越し「教師が支配する」という関係に対しても切り込んでいます。というのも、様々な考え方はありますが、学校の本来の目的の1つには「生徒が生活していく上での力を伸ばしていくこと」です。アドラー心理学では、この手段として教師の「支配」は必要ではない、というスタンスをとっています。言い換えるならば、生徒が自主的に自身の能力を伸ばしていく、そのサポートを担うのが教師の役割であり、サポートという関係において支配は悪影響である、というスタンスでしょう。
 この信念を聞くと私はやはり抵抗を覚えてしまいましたが、この本での「友人」「対等な関係」であることは「アナーキー」的な「放任主義」とは一致しないということを強調しています。つまり、ここでの「友人」とは「支配者」と対になる存在として挙げた言葉であり、不用意な慣れ合いや放任主義を推奨しているわけではありません。そもそも、アドラー心理学では、「学習」とは個人が自身のために、またその自身の好奇心を元に進めていくものであり強要されて行うものではない、という捉え方を前提としています。そのため、最高の学習形態は自分の好奇心を発信源に自ら学んでいく、その際に教師はサポートする、というスタンスを奨励しており、これが「友人として」の立場に繋がっているのでしょう。

 この節を読んだ際、私は(私のイメージ上の)「予備校の講師」と真逆の存在だな、と感じました。私の思う予備校講師とは「知識の伝達を最大限効率的な形で提供する」という存在です。ここには生徒と教師の他に他者は存在しませんから共同学習とは真逆でしょうし、一方的に知識を伝達するという点においてアドラー心理学のように「教師も一緒に学ぶ」というスタンスも真逆だと感じます。
 ここで私は「双方の考え方は真逆であるのに、個人的には双方に『いい教師(講師)』と呼ばれる教師はいる」のではないか、と疑問に思いました。少し踏み込んで考えてみます。アドラー心理学のようないわゆる協働学習では、生徒は自分で模索する形で成長していきます。つまり、(その授業形態にもよるでしょうが、基本的には)学習の発信源は生徒自身の関心や動機であるため、外部から植え付けられた無機質な学習=<知識>とは異なり、自分自身に実感のある学習=<知恵>となるでしょう。この点に関して言えば、ひょっとすると教師が支配的であることは、生徒の学びを妨げてしまう恐れがあるかもしれないので、「友人」というスタンスが最善なのかもしれません(もちろん、教師としての役割は学習指導だけではないので、その点は考慮していないかもしれませんが)。すなわち、アドラー心理学での「いい教師」とは、生徒の主体性を最大限まで伸ばし、学習をコーディネートする存在です。一方で、予備校講師はサテライトや録画されたもので授業が出来てしまう点を踏まえると、基本的には一方的な知識の伝達がその職務の中心なのでしょう。というのも、予備校講師の職務は「生徒に大学入試で良い点を取らせる」という目標に特化しているため、この点では学校での授業より優れているのかもしれません。そもそも、予備校や塾ではそこに集まる生徒のニーズがハッキリしていますので、学習者の関心等を考慮しなくとも、「基本的には大学に行きたい」というベクトルに大学入試に特化した知識を乗せてあげればいい、と言えるかもしれません(が、塾でバイトしている限り、実際のところ生徒のモチベーション管理は重要な仕事の一つだったと感じておりますがここでは割愛)。故に、予備校講師での「いい講師」とは大学入試という目標だけに特化してコンパクトにまとめ上げられた授業が展開できる教師といったところでしょう。まとめてしまえば、最終目標が異なるために、同じ次元で良し悪しは言えない、というところでしょう。

信念の違い3

教師は司会者に専念し、ルールは民主主義的に生徒が制定していく
  教師が先導してルールを制定することで、独裁者の色を帯びる
 この信念でも私はやはり抵抗を覚えてしまいましたが、再度強調しますと、この本での「友人」「対等な関係」であることは「アナーキー」的な「放任主義」とは一致しません。つまり、ここでの「友人」とは「支配者」と対になる存在として挙げただけであり、不用意な慣れ合いや放任主義を推奨しているわけではありません。これらは生徒指導でも変わらず「友人として」のスタンスが奨励されています。教師はどうしても、そのルールのみを強調するために支配的で一方的な存在になりがちとなり、その結果生徒と摩擦が起こり不要な反発を引き起こしてしまうようです。しかしながら、ルールとは何かを守るために存在しているという経緯を辿り、その経緯を生徒に納得させることができるならば支配的になる必要はない、という説明がなされていました。すなわち、一方的な押し付けは反発や摩擦を生むため、同じ目線からルールとその考え方を共有していく、というスタンスが重要視するようです。

「クラスはよみがえる」を読んだ際の感想

 素晴らしい本である、これは間違いないと思います。というのも、多くの教師の根幹には「生徒を支配する」という考え方は存在するのでしょうが、そうでないやり方を知るには最善の本ではないでしょうか。私は基本的に支配的な教育しか受けてこなかった、というかこの本で紹介されているような手法で授業を受けたことがないので、やり方がわからない、というかアイデアがそもそも浮かばない人間ですので、非常に得るものは大きかったと思います。ただし、アドラー心理学の中途半端な導入は、私の指導のスタンスにブレを生じてしまいそうなので、しばらくはじっくり見つめたいと考えています。
 一方で、この本は若干極論が多いという印象を受けてしまいました。読んでいて少しアドラー心理学以外での手法に対して厳しい見方、というか偏見・敵意に満ちた言葉回しが多いと感じました。というのも、この本の冒頭に触れてあるのですが、この著者はカウンセリングの方面の方であり、この本以外の手法により傷ついてしまった生徒を多く見てきていたからなのでしょう。この本では「私たちの立場ではこう行動します。もしそれ以外の立場であれば、このように行動し、生徒を傷つけてしまうのです。」ときっぱり記載されているケースが多かったのですが、極論すぎる印象を受けてしまうというか、例え信念が違えども大前提として子どもの成長を願う立場にいるならばそのような行動はしないだろう、と感じる面がありました。

 ぜひ、読んではいかがでしょうか。

野田俊作 萩昌子 『クラスはよみがえる 学校教育に生かすアドラー心理学』 創元社