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2015年2月15日日曜日

アドラー心理学から学ぶ 協調のクラスづくり

アドラー心理学から学ぶ
協調のクラスづくり
アドラー心理学って何?
 本項では「アドラー心理学の信念」VS. 「そうでないやり方」を3つ挙げることで簡単にアドラー心理学をまとめます。

信念の違い1

全員が協力して課題を解決することで、各個人が過去の自分より伸びることが目標
  課題に関して他人と競うことで、各個人が他の生徒より秀でることが目標

 最もわかりやすい違いであるのが、「最終目標」とそれに対する「アプローチ」に対する姿勢でしょう。アドラー心理学では、昨今話題の協同(協働・共同)学習のように「協力」することを軸に学習を進めていきます。また、成長の基準は他者ではなく、過去の自身と置くことで、周囲との競争を教室内から排除することを可能にします。この本では、競争の原理を完全に否定しています。
 やや言葉足らずな抜粋になってしまう恐れがありますが、教室から競争の原理を排除することで、生徒は1) 高い自己評価を持ち 2) 世界を信用している 3) 集団への所属感に満ちた =健康な状態になれる、ということが書かれていました。
 かなり言葉足らずですが、その各効用の説明をします。

 1) 高い自己評価をもつ
          
教室には競争はありません。常に過去の自分との比較になります。この場合、基本的には生徒は成長し続けますので、自己評価は下がりません。よって、「競争を排除すれば、生徒は高い自己評価を持てる」となります。

 2) 世界を信用している

          
競争のない教室では、比較するような他人はいないわけですから、教室内に争うような敵はいません。よって、協力の動きが自然と起こり、世界を信用する体制が育成されるようになります。

 3) 集団への所属感に満ちた

          
競争はないということは、落ちこぼれや優等生という存在は発生しませんので、不用意な疎外感が生じづらくなり、代わりに所属感が生じます。

 このアドラー心理学の目標設定は「教師がそう思う」程度では無く、徹底したものでなくてはいけない、というのがこの本では強調されていたように思います。しばしば「教室におもいやりを」という標語を掲げているものの、なかなか生徒に反映されていない教室を見るように、これは教師の信念こそ間違ってはいないものの、それに向き合う姿勢と方法論(評価体制)等に問題があるのではないでしょうか。この本でも書かれている通り、例え教師が「おもいやりを重視します」と言っても、まず基本的に教師という職業柄、学習しない生徒に対しては注意してしまうでしょう。また、重視しようとしている「おもいやり」に関しても、仮に生徒のやりとりからおもいやりが見られた場合に、それを評価してあげることは困難です。というのも、「おもいやり」が発生する場面というのは基本的に生徒間ですから、そこに教師が介入することはほぼ不可能でしょうし、教師に対するおもいやりは捉え方を変えれば媚を売っているように捉えられかねません(ちなみにアドラー心理学では「教師と生徒の立場は平等」を掲げているので、教師に対する「おもいやり」は「媚を売る」とは一致しない、とのことです)。結果的に教師が「おもいやり」を重視していると思っていても、結局のところ学習に対する態度に関してしか触れることが出来なければ、生徒たちはこれらの目標に向かっては歩みづらくなるでしょう。よって、この本の通りに「協調」をメインに置くのであれば、従来の教師のイメージを刷新し、全ての挙動に対して見つめなおす必要があるのかもしれません。

信念の違い2

教師は生徒と対等な友人として、学習が促進することに専念する
  教師は尊敬される立場であり、知識の伝達に重きを置く

 アドラー心理学では「競争を持ち込まない」を超越し「教師が支配する」という関係に対しても切り込んでいます。というのも、様々な考え方はありますが、学校の本来の目的の1つには「生徒が生活していく上での力を伸ばしていくこと」です。アドラー心理学では、この手段として教師の「支配」は必要ではない、というスタンスをとっています。言い換えるならば、生徒が自主的に自身の能力を伸ばしていく、そのサポートを担うのが教師の役割であり、サポートという関係において支配は悪影響である、というスタンスでしょう。
 この信念を聞くと私はやはり抵抗を覚えてしまいましたが、この本での「友人」「対等な関係」であることは「アナーキー」的な「放任主義」とは一致しないということを強調しています。つまり、ここでの「友人」とは「支配者」と対になる存在として挙げた言葉であり、不用意な慣れ合いや放任主義を推奨しているわけではありません。そもそも、アドラー心理学では、「学習」とは個人が自身のために、またその自身の好奇心を元に進めていくものであり強要されて行うものではない、という捉え方を前提としています。そのため、最高の学習形態は自分の好奇心を発信源に自ら学んでいく、その際に教師はサポートする、というスタンスを奨励しており、これが「友人として」の立場に繋がっているのでしょう。

 この節を読んだ際、私は(私のイメージ上の)「予備校の講師」と真逆の存在だな、と感じました。私の思う予備校講師とは「知識の伝達を最大限効率的な形で提供する」という存在です。ここには生徒と教師の他に他者は存在しませんから共同学習とは真逆でしょうし、一方的に知識を伝達するという点においてアドラー心理学のように「教師も一緒に学ぶ」というスタンスも真逆だと感じます。
 ここで私は「双方の考え方は真逆であるのに、個人的には双方に『いい教師(講師)』と呼ばれる教師はいる」のではないか、と疑問に思いました。少し踏み込んで考えてみます。アドラー心理学のようないわゆる協働学習では、生徒は自分で模索する形で成長していきます。つまり、(その授業形態にもよるでしょうが、基本的には)学習の発信源は生徒自身の関心や動機であるため、外部から植え付けられた無機質な学習=<知識>とは異なり、自分自身に実感のある学習=<知恵>となるでしょう。この点に関して言えば、ひょっとすると教師が支配的であることは、生徒の学びを妨げてしまう恐れがあるかもしれないので、「友人」というスタンスが最善なのかもしれません(もちろん、教師としての役割は学習指導だけではないので、その点は考慮していないかもしれませんが)。すなわち、アドラー心理学での「いい教師」とは、生徒の主体性を最大限まで伸ばし、学習をコーディネートする存在です。一方で、予備校講師はサテライトや録画されたもので授業が出来てしまう点を踏まえると、基本的には一方的な知識の伝達がその職務の中心なのでしょう。というのも、予備校講師の職務は「生徒に大学入試で良い点を取らせる」という目標に特化しているため、この点では学校での授業より優れているのかもしれません。そもそも、予備校や塾ではそこに集まる生徒のニーズがハッキリしていますので、学習者の関心等を考慮しなくとも、「基本的には大学に行きたい」というベクトルに大学入試に特化した知識を乗せてあげればいい、と言えるかもしれません(が、塾でバイトしている限り、実際のところ生徒のモチベーション管理は重要な仕事の一つだったと感じておりますがここでは割愛)。故に、予備校講師での「いい講師」とは大学入試という目標だけに特化してコンパクトにまとめ上げられた授業が展開できる教師といったところでしょう。まとめてしまえば、最終目標が異なるために、同じ次元で良し悪しは言えない、というところでしょう。

信念の違い3

教師は司会者に専念し、ルールは民主主義的に生徒が制定していく
  教師が先導してルールを制定することで、独裁者の色を帯びる
 この信念でも私はやはり抵抗を覚えてしまいましたが、再度強調しますと、この本での「友人」「対等な関係」であることは「アナーキー」的な「放任主義」とは一致しません。つまり、ここでの「友人」とは「支配者」と対になる存在として挙げただけであり、不用意な慣れ合いや放任主義を推奨しているわけではありません。これらは生徒指導でも変わらず「友人として」のスタンスが奨励されています。教師はどうしても、そのルールのみを強調するために支配的で一方的な存在になりがちとなり、その結果生徒と摩擦が起こり不要な反発を引き起こしてしまうようです。しかしながら、ルールとは何かを守るために存在しているという経緯を辿り、その経緯を生徒に納得させることができるならば支配的になる必要はない、という説明がなされていました。すなわち、一方的な押し付けは反発や摩擦を生むため、同じ目線からルールとその考え方を共有していく、というスタンスが重要視するようです。

「クラスはよみがえる」を読んだ際の感想

 素晴らしい本である、これは間違いないと思います。というのも、多くの教師の根幹には「生徒を支配する」という考え方は存在するのでしょうが、そうでないやり方を知るには最善の本ではないでしょうか。私は基本的に支配的な教育しか受けてこなかった、というかこの本で紹介されているような手法で授業を受けたことがないので、やり方がわからない、というかアイデアがそもそも浮かばない人間ですので、非常に得るものは大きかったと思います。ただし、アドラー心理学の中途半端な導入は、私の指導のスタンスにブレを生じてしまいそうなので、しばらくはじっくり見つめたいと考えています。
 一方で、この本は若干極論が多いという印象を受けてしまいました。読んでいて少しアドラー心理学以外での手法に対して厳しい見方、というか偏見・敵意に満ちた言葉回しが多いと感じました。というのも、この本の冒頭に触れてあるのですが、この著者はカウンセリングの方面の方であり、この本以外の手法により傷ついてしまった生徒を多く見てきていたからなのでしょう。この本では「私たちの立場ではこう行動します。もしそれ以外の立場であれば、このように行動し、生徒を傷つけてしまうのです。」ときっぱり記載されているケースが多かったのですが、極論すぎる印象を受けてしまうというか、例え信念が違えども大前提として子どもの成長を願う立場にいるならばそのような行動はしないだろう、と感じる面がありました。

 ぜひ、読んではいかがでしょうか。

野田俊作 萩昌子 『クラスはよみがえる 学校教育に生かすアドラー心理学』 創元社