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2016年1月16日土曜日

これで1発!「アクティブラーニングって何?」


 昨今、教育界で猛烈なプッシュを受けている、話題の「アクティブラーニング」。まずは、定義を押さえましょう。(産業能率大学キャリア教育推進フォーラム 第8回 (2014年) より引用)


(アクティブラーニングとは)一方向的な知識伝達型講義を聴くという受動的学習を乗り越える意味での、あらゆる能動的な学習のこと。能動的な学習には、書く・話す・発表するなどの活動への関与と、そこで生じる認知プロセスの外化を伴う。


 どうも難しく聞こえてしまうので、超簡単にすると「授業を聞くのだけじゃダメ!生徒の変化が見えるような学び」。もっと簡単に言えば、「講義を聞く以外の活動全てとなります。すごくわかりやすいですね。


 「えっ、講義以外は全部アクティブラーニングなら何で今更? 別にやってたけど。」と思われるかもしれません。アクティブラーニングの捉えづらい理由の1つは、「そもそも具体的な教授法ではない」からです。「アクティブラーニング」と「そうでないラーニング」は「表と裏」の関係ではありません。どちらかといえば「白と黒」の関係です。「今までの授業は黒よりのグレーだったかもしれませんが、今後は白よりにしていきましょう」程度で捉えてもいいと思います。要は「説明を減らして、とりあえず生徒にやらせてみよう、ついでにそれを確認しよう」といった感じです。


 よって、しばしば「課題発見解決学習」とか「協働学習」と混同されがちですが、最も外側で包括する概念が「アクティブラーニング」になります。


 1発でわかってしまいましたね!
 明日から、アクティブラーニングが実践できそうです!
 よかった!


 以上です。
 次回は「アクティブラーニングは何でスゴいの?」をまとめます。






 (ここからは独り言です。是非、読み飛ばしてください。)
 「じゃ、問題集を解くのはアクティブラーニングになるの?」と言われると、私の手元にあるどの書物にも明記はありません。あくまで私見ですが、おそらくアクティブラーニングに含まれると思います。何故なら「授業で得る前では解けなかった問題が解けるようになった」という認知の変化のプロセスが、問題集上で外化されているからです。問題集を解くのは、主体的ではないかもしれませんが一応能動的ですよね、鉛筆は動いてますし。


 ただし、「問題集はアクティブラーニングだよ!」とは、どの本にも書いていないです。何故でしょう。


 ついでに言わせてもらうと、どの本にも「広義では…」と記載されているものの、「狭義」が見当たりません。何故でしょう。


 おそらく、様々な実践例や説明から察すると、アクティブラーニングの狭義(のイメージ?)は次のようになると思います。『アクティブラーニングとは、実生活と結びつきやすい活用を、意義付けするために課題解決と結びつけた上で、しかもそれを生徒間で交流しながらやる学習』、こんな感じでしょうか。率直な感想を述べさせてもらうと、この狭義を忠実に守ろうとすると、多くの教科でシラバス上の単元では相当やりにくい内容が多い気がします。実際、学校で教える内容は「この単元単体では実生活で活用することが極端に少ない」「世間の課題と結びつかない」「個人でやったほうが効率的」なものが多いです。むしろ、この狭義のアクティブラーニングがあてはまる題材のほうが少ない気がします。もちろん、そう考えてしまうのは私の力量と工夫不足なのかもしれませんが。


 そもそも、アクティブラーニングは大学での教授法として出発したそうです。大学では、教室内の学生が多く、教授すべき情報量も圧倒的に多いことから、講義形式が一般的でした。しかし、世間が激しく変化し、知識と世間の距離が生じてきています。さらに知識そのものがググれば済むようになりつつあります。また、大学進学率が大幅に増加し、従来ほど知識のない学生が増えています。このような世の中の変化から、大学での講義形式に活動を加えるという発想でアクティブラーニングは生まれました。
 正直、このアクティブラーニングがどういう過程で大学から高等学校や中学校に移行したのかはイマイチ知りません。しかし、中学校や高等学校では100%講義形式の授業は稀ですから、新しい「アクティブラーニング」という響きに、色々と余計なものがとってついて、もはや別物になっているのかもしれません。さらに、従来から注目を集めている「課題発見解決学習」や「協働学習」と混合され、元の概念から派生した別の何かになっている気がします。



 以上のことから、「アクティブラーニングって何?」と聞かれた際は、「定義によれば講義以外」と答えるよりも「課題発見解決学習と協働学習を合わせて、発表させるやつ」と認識する方がいいのかもしれません


参考文献
『アクティブラーニング入門 (アクティブラーニングが授業と生徒を変える)』 小林昭文
『アクティブラーニングと教授学習パラダイムの転換』 溝上慎一
『すぐわかる! できる! アクティブ・ラーニング』 純, 西川
『現場ですぐに使える アクティブラーニング実践』 小林昭文

2016年1月8日金曜日

脱マインドコントロール教育


 本記事では、「主体性を伸ばす教育」をまとめたものであり、「生徒をマインドコントロールする」という趣旨ではないことを明記しておきます。

 昨今の教育では、生徒に主体性(自主性・自立性)を育成することが求められている。一方で、主体性の逆は「服従」であり、その一例には、信じられないような監禁事件やテロを可能にしてしまう、マインドコントロールが挙げられます。
 マインドコントロールは主体性を奪い、思いのままに操るという人権を大きく侵害した行為です。そんな恐ろしいマインドコントロールの原理は、実のところ、私たちの身の回りにありふれていて、いわゆる「説得力のある人」はその原理を知らない内に用いていることが多いようです。意識してうまく活用すれば、マインドコントロールは人を動かすための効果的な武器になります。が、マインドコントロールは無意識で用いられている場合も多々あり、私たちは気づかない内に生徒を洗脳し、主体性を奪い、彼らの価値観と一致しない行動を強制しているのかもしれません。
 再掲しますが、本記事では「主体性はどのように奪われてしまうのか」という点に着目し、それを逆手に取ることで「どうすれば主体性を伸ばせるのか」を紹介します。あくまでも「主体性を伸ばす」のが目的であり、「生徒をマインドコントロールする」という趣旨ではないことを再度明記しておきます。


主体性を奪う要素1

情報量の欠如・過多


 マインドコントロールするとはいえ、脳に直接操作を加えるわけではなく、その多くは与える情報を操作することによって行います。その情報のカギとなるのは情報量です。先に結論を述べると、与えられる情報量が「極端な量」になればマインドコントロールがかかりやすい状態に陥ります。極端な量について、少なすぎる場合と多すぎる場合について言及していきます
 まずは極端に少すぎる場合です。具体的には監禁状態のような外界との関係を一切遮断した状態がこれに当たります。戦時中の情報操作が当たり前だった日本軍や、時より報道される痛ましい監禁事件などは、外部の情報を極端に制限することにより、与えられた唯一の情報のみを信じるようになります。一般的に見られる「勉強合宿」等は外部からの情報を遮断することで、「勉強することのみが正しい」という状態を作り上げ、生徒を勉強に集中させたりする、いわばマインドコントロールの一例となります。ただし、通常の学校において、生徒は外部と常につながっていることから、情報を制限することは困難です。
 一方で、情報が多すぎる場合もマインドコントロールにかかりやすい状態に陥ります。これは、身の回りに情報が多すぎて、情報処理だけで精一杯になってしまい、主体的に判断することができない状態に陥ることから生じるというものです。現代はメディアの発達から、生徒はテレビやインターネットから無数の情報を浴び取捨選択できていないことが多く、このような場合、生徒は自身の行動の判断をできず、指示がないと何もできないパタンが増えいるようです。メディアだけではなく、親からの過保護や学校以外に塾に通うなども大きな要因を担っています。まとめると、現代は情報が錯綜し取捨選択が困難になり受動的にならざるを得ない、言い換えれば、マインドコントロールされやすい環境が整っているようです。
 人間が最も主体的になる環境は「情報が少ない」場合です(「少なすぎる」とは区別しています)。少ない情報を取捨選択し、最善を考え行動する時、人間は最も主体的になる。長い説明よりも、少ない言葉で簡潔に済ませ、自分で考えさせることが主体性を育成させるためには重要です。


主体性を奪う要素2

疲労とストレス


 通常、他人からマインドコントロールを受けようとすると、自分を守ろうとする判断が生じます。しかし、極度の疲労感や神経の衰弱を伴っている場合はマインドコントロールを受けやすい状態に陥ります。
 人間を疲弊させる要因は多々ありますが、その一つに情報過多があります。1つ目の要素でもありましたが、多すぎる情報はそもそも主体的な判断を難しくするばかりでなく、疲弊させ主体的な判断を妨げてしまいます。押しの強い営業マンのマシンガントークは、客に対し主体的に考える余地を無くし、受動的な購入を促します。よって、「多すぎる情報」というのは極めて洗脳の力をもっているため、主体的な生徒を育成する上で情報を浴びせすぎることは極めて逆効果になります。
 また、精神的なストレスを与える際に極めて有効な方法に「先の見通しを奪う・不穏な見通しを暗示する」ことが挙げられます。人間は予測不能な状態で強いストレスを感じます。一般的に、拷問は肉体的な苦痛以上に、いつ終わるかわからない隔離状態の影響が大きいそうです。未来に対する不安は強いストレスを生み、マインドコントロールに陥りやすい状態を作るようです。学校において、教師は生徒に対し「このままでいくと、君の未来は……」というフレーズを使いがちです。この手の常套句は、レベルの高い不安感と緊張を継続的に感じさせるという点では、極めて有効的なマインドコントロールの手法です。生徒を支配するには極めて有効な方法ではありますが、もしも主体性を育成したいのであれば、脅しじみた言い方を避け、「もっとやりたい」というところで止めて余力を残させることが重要なのかもしれません。
 ブラック企業が成り立っているのも一種のマインドコントロールなのではないでしょうか。長時間の労働が通常になってしまい、慢性的な疲労感を常に覚える。過度の疲労感から、主体性が失われ、マインドコントロールに陥りやすくなる。そして、さらに厳しい労働を断れなくなり、会社をやめる気すら起こらない。そういった負の連鎖が日本企業には蔓延しているのかもしれません。


主体性を奪う要素3

救済の約束


 要素1・2のは、あくまで精神的な抵抗力を奪う下準備にすぎませんでした。マインドコントロールの核心は要素3「救済の約束」にあります。特に、その救済が「信念に対する揺るぎない自信」と「誇大自己の万能感」を伴っていれば、窮地に立った人間にとって依存する他なくなってしまいます。また「救済の約束」はあくまで約束であり、実際に救うかどうかは大きな問題ではない点は、多くの宗教を見るに明らかです。
 特に普遍的な問いは、「救済の約束」において絶大なる力を持ちます。例えば、「人は何のために生きるのか」。誰しもが明確な答えを持たないような問いに対して、世間の価値観の矛盾を指摘し、既存の価値観を暴き立てる—「後悔のないように生きるというが、死後、後悔を感じることはできるのか」。そこに揺らぎない信念と万能感を込めた答えを提示する—「最後の審判が存在するのである」。(私は宗教に疎く、この例に意味は全くありません
 例は壮大になりすぎましたが、身近な例で言うと「このままでは大学に受からないかもしれないけど、勉強したらきっと合格できるよ」といった言葉はこれに該当します。強い自信をもって希望を約束されると、人は従ってしまう性質を持っています。しかし、要素3・4は単体では問題がなく、むしろ人をエンパワーする場合の基本的な要素です。後述する要素5と併用した際にマインドコントロールとしての側面が強く発生します。


主体性を奪う要素4

承認者に対する忠誠心(ラポール)


 人間は群れで生活する社会的動物であり、強い承認欲求を持ちます。そのため、自分を認めてくれた人に対して忠誠を尽くすという習性を持っています。忠誠を尽くすとまでは言わなくても、基本的には裏切り行動を好みません。故に、相手に「認められた」と思わせれば、反発することはおろか、より承認してもらえるよう行動します。
 この要素を考慮すれば、「主体性を育成する上で、教師が生徒を認めるような素振りは控えるべきである」という結論にいたりそうですが、上でも述べた通り要素3・4は単体では問題がなく、むしろ人をエンパワーする場合の基本的な要素であり、後述する要素5と併用した際に問題が発生します。


主体性を奪う要素5

自己決定の場面の欠如


 要素3・4は、人間を教育する上でほぼ必須の要素なのかもしれません。マインドコントロールの場合は、上記の要素に加え、もう一つ大きな要素が関係しています。それは、自分で考え判断する場面を排除し、支配者の決定に従うという「自己決定の場面の欠如」です。
 一般的に、カルトではメンターと呼ばれる先輩信者が、新入信者の相談役となり、些細なこともすべて指示を出すようになります。全ての意思決定を他者に一任する状況を作り、自己判断の余地を奪う。また、個人の持つ考えを尊重する場を一切設けない。このような環境を作ることでマインドコントロールが完成します。カルトのみならず、親に行動の多くを決定されるような子どもも、主体性の無さという点では同じなのかもしれません。
 昨今の学校、特に生徒指導において「生徒に自己決定の場を与える」というフレーズが見られます。上記でも述べたように、昨今の社会の変化はマインドコントロールしやすい状態を作り上げています。そんな時代故に、仮に生徒がついてきていたとしても、生徒が自分で選択し行動を選択するような場面を設けなければ、それはマインドコントロールに過ぎないのかもしれません。自己決定の場は主体性の育成において必須の要素でしょう。


まとめ

 クラスマネージメントと言ってもいろいろな形があります。本記事では、主体性を完全に奪い、服従するパタンであるマインドコントロールという視点から、改めて主体的な生徒の指導について、考えをまとめました。前回の記事で「君主論」から「支配による教育」に関してまとめましたが、支配的な指導と聞くと直ぐに「生徒の主体性がなくなりそう」と考えがちですが、そのあり方は様々であり、上記の点を踏まえれば、主体性の育成も可能なクラスマネージメントが展開できそうです。
 要素1「情報量」と要素2「ストレス」は、時代の変化とともに好ましくない状態になってきており、言い換えれば誰しもマインドコントロールに陥りやすい社会を迎えているのかもしれません。要素3「救済の約束」と要素4「忠誠心」は教師が影響力を持つ上で、非常に重要な要素だと思います。一方で、強い影響力には相当する責任が伴います。無意識の内に「救済の約束」をし、「忠誠心」を築くも、要素5「自己決定の場の欠如」に陥ってしまうと、それは教育という名のマインドコントロールなのかもしれません。その点に気をつけていく必要がありそうです。




参考文献 文藝春秋 『マインド・コントロール』 岡田尊司 著

2016年1月4日月曜日

君主論から見るクラスマネージメント

クラスマネージメントは重要

 「クラスマネージメント」という言葉を最近身の回りで聞く機会が多く、多くの教師はこれについて非常に悩むことが多いようです。さらに、新米教師には特に重要らしいです。「クラスマネージメント」と聞くと難しそうな響きがしますが、かしこまった言い方を避ければ、生徒との接し方は教師には必須のスキルである。非常にスッと入ってきます。

「権力によるクラスマネージメント」?

 さて、「クラスマネージメント」を言葉通りに「クラスを教師が思うがままに管理する」という意味で捉えたとします。確かに生徒を思うがままに従えることができれば、「うまくいった」と言えるのかもしれません。言い換えれば、教師は教室内を支配する権力を獲得する必要がある。
 私には教養があまり無い上に厨二病を引きずっているため、権力と聞くと第一に暴君をイメージしてしまいます。さらに「絶大なる支配力を持つ王は良いクラスマネージメントが可能なのかな?」という妄想に更けました。そんな時に頭に浮かんだのが「マキャベリ」が書いた「君主論」でした。簡単に言えば、「君主とはどうあるべきか」というテーマをまとめた古典です。王のあるべき姿を書いた本。厨二心をくすぐります。ただし、非常に難解そうなので、今回は極めて入門書である架神恭介著「よいこの君主論」という新書を元に、「絶大的な支配力を維持するためのクラスマネージメント」について考えていきたいと思います。

 簡単にマキャベリと君主論について、wikipediaより説明を引用します。が、あまり理解していなくても大丈夫だと思います。

マキャベリについて

イタリアルネサンス期の政治思想家。著書は「君主論」他。理想主義的な思想の強いルネサンス期に、政治宗教道徳から切り離して考えるべきであるという現実主義的な政治理論を創始した。

「君主論」について

歴史上の様々な君主および君主国を分析し、君主とはどうあるものか、君主として権力を獲得し、また保持し続けるにはどのような力量(、ヴィルトゥ)が必要かなどを論じている。その政治思想から現実主義の古典として位置づけられる。


「前の先生と同じやり方」が最も楽な道である

 マキャベリによれば、君主として国を統治するのに最も簡単な方法は世襲だそうです。人間の本質は「反対は激しく、賛同は弱い」。変化をもたらすと、以前の体制で良い立場にいた人の地位が危ぶまれる一方で、変化によってもたらされる新しいメリットに対しては猜疑心が働く。よって、最も変化が少ない世襲制が最も簡単な支配形態なのです。
 教室に置き換えましょう。大衆を生徒に置き換えると、やはり生徒に変化を与えることは彼らのストレスになりかねないでしょう。実際、教室内において少し変わった活動を取り入れようとすると抵抗感を覚える生徒を見かけます。さらに、例えば私が生徒だったとしても、担任の先生がいきなり「どの授業の冒頭にも座禅を取り入れよう!」と言いだせば、例え何らかの意図があったとしても第一に「いや、意味不明だし」と不満を持つに違いありません。誰しも、良かろうが悪かろうが、関係なしに、人は変化に対して抵抗を覚えます。
 故にクラスマネージメントをする上で最も楽な方法は「世襲制」、言い換えれば「前の先生のやり方に倣う」ことです。ただし「楽=良い」ではないことを留意しておく必要がありそうです。

「愛される」より「怖がられる」

 マキャベリの君主論の特徴は、政体を守ることを最優先に考えるため、本質的に道徳との結びつきを考慮していないことです。そして、道徳から切り離して良し悪しを考えることから、支配することに求められる本質をまとめています。
 道徳から切り離された視点故に、マキャベリは「人を繋ぎ止めるには、恩愛よりも恐怖をもってすべき」と言っています。言い換えれば、「慕われるよりも、怖れられていた方が遥かに支配しやすい」。人間は常に自身の利益を追い求める生き物である。故に、恩愛で支配しようとした際には、それ以上の利益が得られる道があれば流されてしまうことは容易である。一方で、恐怖での支配は四六時中、恐怖がつきまとうため裏切りを防ぐのに有効である。よって、君主は冷酷であることが求められるそうです。ただし、留意しておきたいのは「怖れられること」と「恨まれること」は区別する必要があることとも言及していることです。恨みは平民の財産や婦子女を奪うことで生じる、それさえしなければ恨みを買うことはない。
 教室に置き換えると、「クラスマネージメントを行う際には、慕われるよりも怖れられている方が支配しやすい」。道徳的に考えれば、あまり良くない発想に思えますが、支配の本質から考えれば、確かに恐怖に勝る資質は存在しないのかもしれません。そもそも、「慕われる」というのは結果に過ぎず、初めからそのような存在にはなれません。慕われるために具体的にどのようなことをすればいいのかパッと浮かばない上に、献身的に行動してもそれがどのように捉えられるかは最終的に受け手次第なのです。一方で「怖れられる」ことは具体的な行動が明確であり、なおかつ支配する上では「慕われる」のよりも有効である。やはり、恐怖をもってクラスマネージメントを行うのは楽な方法なのでしょう。
 恐怖をもって、というと極悪非道な発想だと思われるかもしれませんが、マキャベリは「極悪非道」について2つのパターンがあるとしています。1つは「良い極悪非道」。これは敵の領地を支配し政権を奪い取るために当初に行う極悪非道。ポイントは初めにまとめて行うこと。一方で「悪い極悪非道」とは、継続的に繰り返される加害行為。市民が安心して生活できず、歪みを生じさせると言及しています。よって、生徒に恐怖を感じさせる際には、初めにまとめて指導することが重要なのでしょう。とはいえ、後述しますが、恐怖と恨みは区別する必要があるとも言及されています。恐怖を覚えさせるために理不尽な指導を行えば、それは恐怖ではなく恨みを買ってしまうので、しっかりと注意を払わないといけません。

人望を得る

 マキャベリによれば、君主が民衆から人望を得ることは、君主自身の地位と安全を保つために必要なことであるそうです。君主が怖れることは外部からの攻撃でも、内部の腐敗でもなく、市民の反乱です。市民を支配できてさえいれば、外部の攻撃に備えることもできますし、腐敗も正すことができます。ただし、市民が団結しクーデターを起こされれば、君主の立場は無に帰すことになります。市民のクーデターを防ぐには、恐怖心を覚えさせることも大切ですが、何よりも人望が大切です。
 教室でも似たようなことが当てはまります。—教師が生徒から人望を得ることは、教師の立場を保つために必要である。確かに、実際には同じような指導を行っていても、生徒から反発を受けやすい教師と受けにくい教師がいると思います。そして、反発を受けにくい教師というのは、一概に「優しい」とか「怖い」というわけではなく、「人望のある教師」なのではないでしょうか。

 では、君主が人望を勝ち取るためにはどうすればいいのでしょうか。マキャベリはこの点に関して「軽蔑」と「憎悪」から逃れることを強調しています。それぞれのポイントは以下のとおりです。

   軽蔑を逃れるには、軽薄で優柔不断で無気力な態度を見せてはいけない。

 軽蔑に関しては、()薄っぺらさを見せてはならない(2)決断力の無さを見せてはいけない(3)やる気の無さを見せてはいけない という3点に分けられると思います。これは君主ならず、教師にも共通するのではないでしょうか。

   憎悪を逃れるには、配下や民衆の財産、婦子女を奪ってはいけない。

 憎悪に関しては、君主と教師では少し一致しないかもしれません。ただし、教師という立場では、生徒の財産を奪うことはなくても、教室での立ち位置・メンツを揺るがすことはできます。前章で軽く触れましたが、マキャベリの曰く「恐怖をもって支配することは有効であるが、一方で恨みを買うことは避けなければならない」そうです。生徒の立ち位置を揺るがすような脅し方は恨みを買います。示しをつけるために特定の生徒の立場を揺るがすような説教は逆効果なのかもしれません。
 さらに、マキャベリは憎悪の回避方法として2つのテクニックを紹介しています。1つは「憎まれ役を他に押し付けて、権力者を抑制し民衆を保護する」。生徒指導部に憎まれ役を投げるとうまくクラスマネージメントできるのかもしれません、最終手段だとは思いますが。もう1つは「大きな腐敗を正すことができなければ、自らもその腐敗に身を染める」。学校では校則違反を暗黙の了解として認めるなどが該当しますが、これも最終手段でしょう。恐怖と憎悪の違いは難しいのですが、権利を奪うかどうかが鍵なのかもしれません。


「権力によらないクラスマネージメント」?

 ここまでは「君主として支配するかのようなクラスマネージメント」を紹介してきましたが、本音としては私のスタンスとは一致しません。どちらかといえば、私は「アドラー心理学」に基づいた指導のスタンスの方が合っていると感じています。昨年、簡単にまとめましたのでそちらも是非ともご覧になっていただければ幸いです。

まとめ


 クラスマネージメントを支配という構造で捉えると、やはり先人の知恵ほど役に立つものはないと思います。社会は常に支配と服従の中で発展してきたからです。この記事でまとめたようなポイントを押さえれば、教室を管理できるのかもしれません。ただし、上記で軽く触れた通り、私自身は現段階では、クラスマネージメントを支配関係と捉えたくないと思っています。ただし、教師のスタイルとしては伝統的で有用性の高い一つの答えであると思うので、知識としては持っておきたいと思い、まとめました。いずれ時間があれば、私の信念に近いアドラー心理学との対比をまとめてみたいと思います。


参考文献
ちくま文庫 『よいこの君主論』 架神恭介 辰巳一世 著