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2021年5月30日日曜日

【読解力を身につける】Readingプリントの基本レイアウト

・普段、他の先生ってどうやって「読解」の指導をしているの?
・研究授業や公開授業といった「張り切った授業」じゃなくて、普段の授業が気になる!


今回の記事では、塾講師+教員生活を通して、マイナーチェンジを重ね、やっと落ち着いてきた「Readingの授業」のプリントの基本のレイアウトをご紹介します。私もまだまだ未熟ですので、「こういう進め方もあるのね」程度で読んでいただけると幸いです。

※今回の「雛形」については、基本的なレイアウトに過ぎないので、教科書の単元によっては目的に合わせてガラリとデザインを変えることもあります。



①覚えるための「単語リスト」


授業の冒頭では、まず新出単語を確認します。基本的には、

・チェック欄

・英単語

・(本文中での)意味

で構成された表をポンと置いているだけです。


意識している工夫は以下の通りです。


①教科書でピックアップされている単語だけでなく、熟語も記載する

コンセプトとしては「本単元で覚えてほしい知識については、単語と熟語を区別せず、一覧にして渡す」。標準的な単語リストだと、熟語や固有名詞等は別で記載してあることが多いですが、「身につけてほしい」と思うのは共通です。よって、本文に登場する順番で「熟語」も織り交ぜてリストを作成しています。(別にする必然性がいまいちピンとこないんですよね、、、)


②チェック欄以外に「書き込む」という作業を強制しない

コンセプトとしては「『覚えるべきリスト』という目的を強調するため」。「全員が共通で行う文章」についてはこちらで配布することで、家庭学習に取り組めない生徒が参加できない状況を生み出さず、語彙の導入に専念したデザインを意識しています。もちろん、自身で語学学習する際には、「調べる」という過程は非常に重要だと思うので、「リストを調べて完成させる!」的な授業をされるパターンもあると思いますが、「単語や熟語を調べる作業」については、週末課題・自主課題・演習形式の復習で行わせることにしています。

一応、語彙導入の際に、発音確認と同時にコアイメージや語源、日本語として取り入られているカタカナ語など、暗記の引っ掛かりを紹介するのですが、それらについては特にメモを強制しません。(メモを取る生徒は勝手に取りますし、有用性こそ説明はしますが強要して作業化してしまっても仕方がないので。)授業冒頭で、発音・語源等の確認作業(3分)→暗記活動(20秒)→チェック(30秒)→再暗記(20秒)をサクッと済ませ、読解へシフトします。


③教科書でピックアップされている単語だけでなく、怪しそうな表現は全てリストに加えておく

コンセプトとしては「読解の準備+語彙習得のきっかけはいつでもOK」。生徒は「新出だからわからない」パターンも有るのですが、既出の単語だとしても覚えているとは限りません。よって、単語リストには、生徒が困難を覚えそうな単語・熟語を全てピックアップして羅列します。時にリストが30〜40を超えることもあるのですが、「わからない表現にだけチェックして、わかる表現は無視してね!」と伝えてあるので、不要な生徒はリストから自身で弾いていくシステムになっています。例えば、influenceについては年間5回以上リストに登場しますが、チェックが付き続ける生徒を見るたびに「既出で流されてたら読解の練習なんてできないよなぁ」としみじみ感じます。


④余白には写真やイラストを置く

コンセプトとしては語彙のコアイメージの習得」。言葉で説明するより、イラストで説明したほうがよっぽど早いときがありますので、その際にはイラストを用いてサクッと紹介します。私自体、暗記が苦手だと感じていた生徒の一人でしたので、「暗記を助ける」という手続きを意識しています。


生徒の様子を見る限り、単語が定着していない生徒も、割とこの「サービスだらけの単語リスト」に助けられて本文の読解ができているようです。一方で、「授業プリントの単語リストが多すぎる!」とか「考査の問題に絡む単語だけ絞ってリストを作って欲しい!」という声も聞きますが、これらはそもそもの「読解」という目的から逸れた意見なので、丁寧にお説教して説き伏せるようにしています。笑



②文法解説+例文確認


本文でターゲットにされている文法が含まれた文をピックアップし、文法解説を行います。基本的にサクッと流したいので、メモの書き込みこそありますが、基本的にはマーカーを引くだけで完成します(自分でまとめる習慣については、週末課題等で補完しているつもりです)。共通して言えるテーマは「Readingのスキルを高めるために、『読解』をしてほしい訳で、文法の習得は別でもいいじゃん!」です


①難しめの文を先に解説することで、本文の大まかな流れをガイドする

先に本文中の表現を確認することになるので、若干のネタバレ感こそありますが、苦手な生徒にとっては「訳のわからない文章が1文減る」ことになります。先に丁寧にその文だけ確認することで「この文はわかるから、前後の展開が予想できて、読解作業に再合流できる!」という手助けを意識しています。

②例文で用法を確認することで、「形式的な訳」ではなく、文法のニュアンスを固める

同様の文法が使用されている例文を3〜4つほど確認することで、知識を一過性にすることをとどめようと意識しています。大体、ターゲットとなっている文法は、本文中に複数回登場することが多いので、その際に気付けるように、広いバリエーションを先に提示しておくことを意識しています。

③ターゲット文法でなくても、難しめな文法の復習を混ぜることも

先にも言いましたが、本文中の表現を事前に確認することになるので、若干のネタバレ感こそありますが、苦手な生徒にとっては「訳のわからない文章が1文減る」ことになります。(生徒がわからないのは「新出だから」とは限らないので)


③本文+ほぼFのTF問題


ここでやっと初見の読解を行います。パーツで言えば「単語・熟語」「文法」のレベルでわからない部分を潰しているので、読解の集中できるという段階になっている予定です。読む目的は文章によって異なりますが、基本的には「本文を正しく読み取れているか」をTFの正誤問題で確認していくことが多いです。そして、私の作成するTFの正誤問題は、基本的に全てFです(Fを作りにくい文については、稀にTを入れることもありますが)。生徒は「勘違いだらけの読解」を直すために、正確に読み取ることが求められます。(生徒も「どうせ全部Fじゃろ!」と言いますが、どこが違うのかを読み取るためにリーディングに取り組みます。)


①代名詞の内容の取り間違えTF問題

代名詞の指示内容を間違えた文章のTF問題を用いることが多いです。「ここのthemは何を指していますか?」と聞くのが嫌になったので、「このTF問題は何が違うの?」と尋ねて消化することが多いです。

②対比表現のすり替え

本文中に対比表現が出てきたら、まず確実にそれらの組み合わせをすり替え、間違った文章にします。TF問題を訂正するうちに自然と「何と何が対比されているのか」を考えることが出来ます。

③真逆の文に言い換え

高1の授業プリントのTF問題に「アンパンマンは高額所得者に対して、パンを高値で売りつける」という問題を出題しています。生徒も「いや、読まなくてもわかるわ!」と言うのですが、「私が何故この問題を作ったのか、基となる文を探してよ」と言うと楽しそうに探してくれます(原文では「アンパンマンは、お腹が空いた人に、無償でパンを与える」とかだったと思います)。

④「言い過ぎ」に変える

本文の一部を曲解し、過剰な結論をTF問題に混ぜることが多いです。「ワンチャン言ってるかもしれないけど、でも実際、そこまで言ってないよね?」といった思考過程を求めています。

⑤因果関係のすり替え

本文の因果関係を逆転したり、別の因果関係をくっつけたりします。「意外と事実らしい」文章になることも多いのですが、「本文と一致していないので違うよね?」で押し通します。


基本的に、全ての問題をTF問題にすることで、発言を求められた生徒は少なくとも「TかFか」を回答することが出来ます。また、英問英答とは異なり、産出段階での不正解に関わらないので、生徒も読解に集中できると考えています。ちなみに、基本的に私の作成したTF問題は考査問題にほぼ出題されませんが、ハードルが低いのか楽しそうに取り組んでくれているのでホッとしています。(作るのは大変ですが)



④サイトラ(解説メモ)


作るのが楽なので、教科書のデジタルデータのおまけをそのままベタ貼りして終わりです。基本的には、細かいポイントはこちらに全て書き込むようにしています。

実は、「サイトラを1枚のプリントに記載する」=「生徒が常に訳を確認できる」状態で授業が進んでいます。信頼関係が出来ていないと、「訳を見ればいいじゃん」状態になりますので、他の先生からは指摘されることがたまにあります。

一方で、個人的な意見として「そもそも訳を盗み見る生徒はおそらく読解が出来ない生徒なので、訳を見ながら理解を深めたほうがマシなのでは?」と思うのと、TF問題の間違い探しがゲーム感覚で進行しているので、実際「生徒の多くはサイトラを盗み見ようとしない」ということを感覚的に感じているのでこの形式をとっています。(一時期はサイトラが裏面に来るようにしていた時期もあります)



まとめと本音


私のコミュニケーション英語は基本的に、上記のプリントで授業を進め、生徒は家庭で「ノートをまとめ直す」というルーティーンで授業が進行しています。長めの文章になれば、「前編」「後編」に分けてプリントを作成することで、1授業につき1枚をベースにしています。


もちろん、もっとコミュニカティブな進行で授業をするべきなのかなぁ?と思いはするのですが、やらせたい活動の時間を捻出するために、本文の取り扱いは上記のような過程でパパッと終わらせてしまうのもアリなのでは?、と日々感じています。


研究授業や授業交流を校内で実施することがあるのですが、その際には「生徒の活動を見せたい!」と思い、日々の普通の授業を見せることが少ないのですが、一番土台となる日々の授業を誰にも見せないってどーいうこと?という葛藤から、今回改めて授業の通常回をまとめてみました。


習熟度が異なっても、サポートの丁寧さを変えることで汎用性が高いことから、ここ数年はこのレイアウトがテンプレになっています。是非、参考にしてみてください。

2021年5月23日日曜日

哲学者デューイ「テスト勉強なんてやめちまえ」

今回の記事では、哲学者であるデューイについて、その一節を(私の解釈をふんだんに交えて)再考してみます。



「テスト勉強って形式的すぎない?」


wikipediaによると、デューイは後期プラグマティズムに分類される哲学者。彼の著書『哲学の改造』の一節では、以下のように述べられています。訳がわからないので、例を挙げながら読み進めていきましょう。




・何であれ、目的が限定されていることは、思考過程そのものが限定されていることを意味する。思考過程が十分な成長や運動を遂げることが出来ず、束縛され、妨害され、干渉されていることを意味する。


例:ある少年は「話せたらカッコいい」というきっかけで英会話を学習し始めたとします。英会話教室に通う内に、いつしかその学習は、わかりやすい目的へと限定されていき、「TOEICで900点取るとスゴいらしい。TOEICで900点取りたい」という目的にすり替わり、「TOEICで900点取るためには、リスニングの問題で確実に満点近く取らなければいけない!」「TOEICのリスニング問題の典型的な展開と頻出単語さえ押さえればよい!」といった、更にわかりやすい目的に置き換えられていくことになりました。


我々の学習は進むにつれ、その目的は限定されていく場合があります。そして、目的が限定された学習は活用の用途まで限定されています。この例では、英会話の学習が、最終的にTOEICの典型問題の学習に限定されています。この場合、学習の目的が限定されたことで、彼の学習はTOEICの世界のリスニングの点数に関連した知識に限定されてしまいました。彼は目標を変えない限り、スピーキングの練習を始めることもありませんし、ビジネスシーン以外で広く扱われる日常表現に触れることもなく、「何のためにその勉強やっているの?」という状況に陥ります。

このように、我々の学習の目的が限定されればされるほど、私達の思考過程を狭めてしまい、実用性に欠けた形式的な作業に陥ってしまいます



・認識が十分に刺激される唯一の状況は、探求およびテストが進む過程で目的が発展するような状況である。


例:「TOEICのリスニング頻出単語をマスターする」という目的に囚われていた少年は、無事目標であったTOEICでの900点を達成し、次は「TOEFLでの高得点取得」へと学習の領域を広げたり、また外国人と実際に実際に会い、「足りない表現力を書籍や映画で学習する」ようになりました。


我々が学習を進めていく際に、その効率や成果をテストなどのわかりやすいものさしで確認する作業は不可欠だと思います。この確認の過程を完全に排除してしまうと、非効率な学習を続けてしまい、目的達成が困難になる恐れがあります(マラソンの「とりあえず、あそこまで頑張ろう!」「このペースならまだ行けそう!」「あそこまでは少しペースを落としてみよう」的なやつです)。一方で、いつしか確認作業の方が目的にすり替えられ、「テストで高得点を取るために!」といった学習に陥ることも少なくありません。目的が限定されることは、確認作業が学習の効率を確認するものさしである以上、ある程度は不可避なのかもしれませんが、故に目的を発展させ続けるということが非常に重要になります。テストでの得点を指標にはするものの、あくまでそのスコアは学習の効率を測定するための目盛りに過ぎず、これらは通過すべき目的として、絶えず次の目的へと乗り換え続けないといけません



・概念、理論、思想体系は、道具である。すべての道具の場合と同じように、その価値は、それ自身のうちにあるのではなく、その使用の結果に現れる作業能力のうちにある。


例:「TOEIC満点」の2人がいて、一方は「テストマニア」であるだけで実際に英語を使うことは全くないが、もう一方は様々な商談を英語で行うことのできる人物でした。


知識も道具に過ぎないので、「テストの点数」そのものがスゴいのではなく、それを使って何が出来るのかが重要ということだそうです。 





デューイの思想で解決できる昨今の諸問題


デューイ曰く、「使えない知識は意味ないよ」ということなので、現実の諸問題に当てはめてみましょう。


昨今、大学入試でも「思考力を問う」という風潮があります。大学入試の本来の目的を考えれば、「応募した人数を定員に絞り込む」だけの機能があればいいのでくじ引きでも良いのかもしれませんが、できるだけ専門性を高められる素質のある人材を集めたいので入試を実施します。最近では「思考力は問わない」と明言する組織もいるようですが、「土台となる知識の量で選抜する」という趣旨では成立していると思います。一方で、大学でも「実際の作業能力である思考力を重視したい」という趣旨で、「思考力を問う」ような入試を展開している大学も出てきているようです。個人的には、どちらも理にかなっていると思います。ただし、「知識を重視する」前者には、「選抜する試験が形骸化し、それそのものが目的となる恐れがある」というリスクを意識する必要があると思います。


また、高校で展開される考査・成績についても考えてみましょう。これらも「学習効率の振り返り」としての位置づけでその機能を果たし、あくまでも「展開されるべき目的にすぎない」のであれば有用だと思います。一方で、考査や成績が目的にすり替わり、「日々の授業が校内の考査(成績)のためだけの手段」に位置づいてしまった時に、その教育的な価値はあまり期待できません

(もちろん、無意識で能力が高まっているパターンも十分考えられます。物語で使い古された「この修業はこのときのためだったのか!」といった理不尽な特訓も、時間があれば悪くはないのかもしれませんが、3年間かけてやることはないのでは?と個人的には思います。)


学習内容を形式的に陥らせないために、「導入では実生活との関連を強調しましょう」とか「パフォーマンス課題を通して知識だけでなく思考力までを評価しましょう」といった風潮があるのだと思います。この議論の狭間に「それでも大学入試は土台となる知識を測定するような問題を構成している!どうしよう!」という葛藤が常に衝突してきたのですが、昨今では上記でも述べたように、大学入試そのものも思考力を測定する風潮があるので、気づけば過去のお話なのかもしれませんね。

(一方でパフォーマンス課題については、「自身の学習のモニタリングの機能を果たす」という本来の趣旨にしてはコストパフォーマンスが悪すぎるのでは?という疑念があります。授業内で能力を活用する場面を設ける部分までは賛同します。が、活用をそのままテストでも行わせるべく、実施と評価に膨大な時間を掛け、業務を無限に膨らませるほどの人材的な余裕を感じられません。例えば東京スカイツリーの高さを図るために、『実際に巻き尺を垂らして2日掛けて計測する』のと『比を用いて5分で計測する』場合に、前者の方を絶対的に盲信するのはアホらしく思えます。授業内で活用させたんだから、考査ではその能力と相関のある指標を用い、効率よく評価してあげればいいんじゃないの?と思います。もちろん、この場合は学習の形式化という問題に再ループすることになるのですが、、、)



まとめと本音


人が学習するのは「出来ることを増やす」というのが主たる目的ですが、ある地点で学習そのものが形式化し学習すること自体が目的になっていくケースが多いですよね。もちろん、学習内容が高度になり専門性が高まるほど、汎用性が損なわれていくのは仕方がないのかもしれません。高校の授業は基本的に、「学問を志す上では絶対に必須」レベルだけど、「基本的な生活を営む上では必須ではない」レベルの知識ばかり教えています。今の勤務校では、小・中学校で取りこぼした知識の多い生徒と大学進学したい生徒が混在しているので、特定の目標をクラス内で達成することが困難な状況(上位層に合わせると補填しないといけない知識が多すぎる一方、下位層に合わせると限られた時間の中では大学進学が不可能)です。しかし、とどのつまり「テストのための学習」に時間を割くほど、時間の余裕がないのは明白ですので、授業もテストも形骸化させず、実際の知識の運用という観点を軸に計画していく必要があるなぁと思います。


2021年5月16日日曜日

雑記(考査の振り返りシート・雑談『桃太郎はスゴい』)

広島県にも新型コロナウイルスを理由とした緊急事態宣言が発令され、全県的に県立学校のオンライン授業への切り替えが求められています。私は今年度、勤務校で「情報推進リーダー」という役職を任命されており、その辺りの調整を行わないといけない関係でてんやわんやな一週間でした。実際は「本当の闘いはこれからだ!」といった所なのですが。

ひとまず、Google classroomによる教材配信+Meetでの相互配信により対応することが決まりました。教科別にClassroomを開設してもよいのですが、講師の先生への負担を考えた結果、「授業展開場所」ごとに臨時のClassroomを開設し、生徒は現実世界で教室を使い分けるのと同じ感覚でClassroomを切り替える形を取りました。メリットは「教科・授業別のClassroomで展開すると、習熟度や編成クラスそれぞれにClassroomを開設する必要があり煩雑になるため、結果的に開設するClassroomが少なくなる」こと。デメリットは、「1つのClassroomに複数の教科の教材が配信されてしまうので、ラベルやタグの機能を活用しなければ、データの管理がぐちゃぐちゃになる」ということでしょうか。今後、様々な問題が発生しそうで、5月は多忙を極めそうです。(中間考査、、、orz)


考査の振り返りシート


「コロナに付随したオンライン授業への対応に追われていなければ、、、」を語っても仕方がないのですが、今年度から計画していた「考査の振り返り」のアイデアをここにまとめておきます。


考査を行うたびに、結果に一喜一憂して終わる生徒が多いように感じます。現在の勤務校に限った話かもしれませんし、私がおっさんになってきたからかもしれませんが、「長期的な視点で学習するのが苦手な生徒」が多いように感じます(「学生時代、講義を聞かずジャンプを読んでいた人間に言われたくないよ」と言われそうですが)。「考査の結果を一喜一憂で終わらない振り返り」の原案が固まったので、備忘録としてまとめておきます。




ざっくりしたデザインは、ワークシートを3×3の9分割。

横軸は観点別。1学期の中間考査は読解にフォーカスを置いていたので、語彙・文法・読解の3観点。考査の構成によって、横軸の観点は毎回変えていけばいいかな、と思っています。

縦軸は振り返り。上段に「今回の取組」、中段には「考査の結果」、下段には「次回の取組」。過去・現在・未来をイメージしています。なお、中段については「どの大問が該当するのか」を説明し、パーセンテージで色を塗るタイプにしてみようかなと考えています。(細かく分析させても良いのですが)


活用方法は以下の通りをイメージしています。

①考査を返却する前に、それぞれの観点について行った対策を書く。

②考査を返却し、今回の結果を分析する。

③次回の考査に向けて取り組むべき課題・方略を明記する。


「過去」「現在」「未来」という視点を重視した結果、今回のようなデザインになりました。というのも、「過去を振り返らないと、無謀な計画を立てて、実行されない」「現在の分析を行わないと、動機や到達点が固まらない」「未来を計画しないと、行動の変化が起こらない」というのが理由です。


実際に使用したワークシートを紹介できたら良かったのですが、そもそも一斉に考査を返却できる状況ではなくなったので、構想で終わっています。恐らく、今回返却できる生徒を実験台に運用して改善したものを本格活用しようかと検討していますが。



桃太郎がスゴい理由


今週、本校では進路説明会が開催され、私はとある国公立大学の説明会会場の監督を割り当てられ、話を聞いていました。そこで担当の教授の方が言われていた「皆さんは周りの大人に応援されなければいけない」というフレーズをきっかけに考えたことをまとめます。


昔から思っていたのですが、日本昔ばなしは教訓が読み取りにくいと思いませんか。


イソップ物語は教訓がわかりやすく、「うさぎとかめ」では「努力の継続」という教訓が土台にあり、「アリとキリギリス」では「準備の重要性」を伝えるための構成になっています。


一方で、日本昔ばなしは教訓が読み取りづらい。「浦島太郎」では、「乙姫様の言った約束を守らなかったことで懲罰を受けた」という教訓でまとめようにも、ノイズが多すぎると思いませんか。「開けたらいけないなら、玉手箱渡すなや」と昔から思っていました。もちろん、初めのストーリーからマイナーチェンジを重ねた結果なのだと思いますが、脈々と受け継がれていくならば、もっと明示的な教訓があってもいいと思うのに。(無論、そのアンニュイな感じが様々な解釈を生むので、「大人も子どもも楽しめる、実は奥深いジブリ映画」的な位置づけで良いのであれば成功なのだと思いますが)


そんな中、今回の進路説明会の大学教授が「高校生の責任の一つに、周りの大人に応援されることがあると思うんです」という話を聞いた時にふと浮かんだのが、「桃太郎」でした。村を破壊した鬼を討伐するために、道中で仲間を増やしながら進む冒険記(と呼ぶには、困難に直面することもなく、疑問の多い不思議な話です)。ストーリー上では、きび団子を渡すことで簡単に仲間を増やして進んでいますが、イヌ・サル・キジにもそれぞれの事情があり、奇跡的な噛み合いがあったのかもしれません。知らないけど。


さて、高校生が大成する上で必要なファクターにあるものをふと考えた時に「大人に応援されること」って意外と大きいのではないかなぁと思いました。桃太郎のように、出会う人を仲間にして、自身の力に転換しながら大きなことを成していく経験を積むべきなのかもしれないなぁ、と考えていました。


一方で、「周りに応援される」ために必要なことは一体どんなことなのでしょうか。ひとまず「約束を守る」とか「全力で取り組む」とかは、個人的に大きいと感じる要素な気がしますが。


いつか、この辺のことが言語化できたらいいなぁとボヤいてみます。そういえば、私の母校の校訓は「人に(中略)愛される人になろう」だったことをふと思い出しました。



まとめと本音


今週は忙しかったので、インプットを確保できませんでした。一応、更新を続けることにもある程度意味があると考えているので、雑記という形でまとめてしまいました。このような回が続かない世の中を願っています。 


2021年5月9日日曜日

脳科学トレーナーの「学び方」の3つのカギ

ジム・クウィック著「LIMITLESS 超加速学習ー人生を変える「学び方」の授業」をもとにしたお話です。


脳科学領域のトレーナーの学習モデル


著者のジム・クイックは一流企業で、学習法の指導や仕事の効率化を訓練してきた、脳科学領域のトレーナー。その彼の学習モデルを「学校」に当てはめてみましょう。



「限界突破」のための3つのカギ


ジム・クイックは、「自分の限界を超える能力を発揮するには、3つのリミットを外す必要がある」と述べ、以下の3つを挙げています。


・ マインドセット(考え方)

・ モチベーション(動機)

・ メソッド(方法)


以下では、それぞれを解説した後、「学校」では何に該当するのかを確認してみます。




マインドセットの限界突破


1つ目の「限界突破」のカギは、マインドセット(考え方)です。


要は「『自分には不可能だ』というネガティブな思想の呪縛からの脱却」です。


我々はつい無意識に自身の行動にブレーキを掛けていることが少なくありません。心理学で言えば「本気でやっていなかったから」という言い訳を用意することで自尊心を守るための自己防衛をとってしまうのがこれに該当します。その発展版が「はじめから自分は無理だと思っていた」という段階。この段階にいると、人はつい「取り組んでも無駄かもしれない」と行動を自ら抑制してしまうことになります。このような心理状態を突破する必要があります。


学校の指導においては、「自己有用感」「達成感」を感じさせる工夫が、このマインドセットの限界突破に該当するように思えます。振り返りの活動等において、自身の成長を感じさせる工夫を取ることによって、次の取組にも積極性をもたせる、といった工夫がこれに該当します。また、前向きな声掛けを徹底することにより、「失敗を恐れない」「探究心を伸ばす」といったフレーズも、この考え方と一致するように思えます。これらの活動は、脳科学的な見地においても重要なことがわかります。

上記では「達成」の方の動機づけに注目しましたが、同様に「失敗」に対する声掛けも必要なように思えます。生徒が何かに失敗した時に寄り添い、再度挑戦する手助けを行うことが精神的な成長を手助けするようにも思えます。努力をした割に、考査の点数が悪かったり、模試で思った結果が得られなかった際に、生徒の戸惑いを冷静に受け止め、見つめられるように分析してあげることが、次の成功体験の効果を倍増させるように思えます。

以上のことから、「達成感を感じ取りやすくする仕組みを設定する」「努力に対する結果を可視化し、認識しやすい仕組みを設定する」「期待していた結果を出せなかったときにはフォローし、次の機会に向けて分析を手助けする」といった工夫を仕掛けることが重要なのかと思います。




モチベーションの限界突破


2つ目の「限界突破」のカギは、モチベーション(動機)です。


要は「強制される」段階を超え、「進んで行動してしまうような原動力を身につける」です。


学校での指導においても、我々は生徒のモチベーションを確保するため、日々様々な工夫を仕掛けていると思います。例えば、「オープンキャンパスに行かせてみる」とか「とりあえず褒めてみる」など、使えるきっかけは雑多に活用しています。(そして、それでも進路に向かって歩き始めない生徒に対して、最終手段として「手遅れになるぞ!」とつい脅し文句を垂らしたりしてしまいますよね、、、あれっ、私だけでしょうか?笑)


本書には「モチベーションの限界突破」のために、いくつかのテクニックが紹介されていました。それらを踏まえると、従来の雑多な活動の効果が飛躍的に上がりそうだと感じました。



【モチベーションを限界突破するテクニック(抜粋)】

自身の価値観を明確にしておく

生活上のストレスを減らす



①については、「生徒の価値観を明確にするステップを必ず設定する」ことで組み込めそうです。ついつい、この「自分を見つめる」というステップをすっ飛ばすことがあります。『重要だと思うことは何か』『他人よりストレスを感じにくい領域は何か』を土台として固めていないと、簡単に夢や進路は揺れ動いてしまいます。

余談ですが、かつて私も、いきなり「もう志望校は決まっているよね?進路希望調査をします!」と手順をすっ飛ばして行うことが多々あったように思えます。思えば、大人でさえも日々価値観は変容しています。例えば、昨日許せなかったことが今日は何故か許せてしまったり、絶対にやりたくないと感じていたことが意外と苦ではなくなっていたり。一方で、価値観の中で変容しない部分も存在します。私は「疲れは一時的なモノだが、経験は長期的な糧になる」という考えから、ブッキングしていない限り滅茶苦茶なスケジュールを立てることが多々ある人間なのですが、これは過去も未来もあまり変わっていません。根底には、思春期に感じた「死んだら無になる絶望感」に由来する、揺るがない価値観があるのだと思います。このような、自身の揺るがない価値観を明確にすることはより重要なことに思えます。言い換えれば、「自己理解」のステップを軽んじてはいけない、ということなのかもしれません。

とはいえ、最近感じることなのですが、生徒に「自分のことについて考えてみよう!」と言うと、その切り口の少なさに面食らうことも少なくありません。「寝るのが好き」「テレビ見るのが好き」など、単純な行動の嗜好にとどまってしまうケースが多いのではないでしょうか。割とどの学校でも、入学してすぐに「自己診断」の外部テストを行っているのではと思うのですが、無知なことには認識が及ばないという事情を踏まえると、そのような項目が挙げられているような自己診断の結果を踏まえ、その先の自己理解を土台として自身を考えるように設定していかないといけないのかもしれません。(心理テスト感覚で「おもしろいねー」程度で軽んじていた自分を滅茶苦茶反省しています。)


②についてですが、ここでの「ストレス」には、栄養・睡眠・人間関係等も含まれます。「ストレス」については、学校を超えた視点で考えないといけないと思います。人間にはある程度のストレスは必要だとも思いますが、モチベーションを阻害する要素であることを踏まえ、クラスの様子を見ながら、時に不要なストレスを適切に発散させてあげるような視点も持ち合わせていなければ最高のパフォーマンスは引き出せないのかもしれませんね。



メソッドの限界突破


3つ目の「限界突破」のカギは、メソッド(方法)です。


要は、慣習的な方法を脱し、「脳が最も高いパフォーマンスを発揮する手段を選択する」です。



学校での指導において、我々は「わかりやすい授業」への工夫を凝らしている部分が該当しそうです。プリントの説明やワークシート全般において、「どう教えたら学習効率が高まるのだろう?」と、日々メソッド(教授方法)を試行錯誤していると思います。


本書には「メソッドの限界突破」のために、脳科学的見地から複数の状態が紹介されていました。あまり授業内には取り入れづらいと感じたので、サラッと紹介します。(むしろ、以下の観点は、勤務中の我々教師にこそ必要な工夫なのかもしれません。)



【メソッドを限界突破するテクニック(抜粋)】

シングルタスク(GTD)

意識的にフロー状態を生み出す



①については、「複数のことを同時並行で進めない」ことです。GTDという仕事の処理方法が紹介されていました。Getting Things Downの略称で、要するに「複数の仕事について、並行で進めるのではなく、順序を付け、一つずつ潰していく」という進め方です。人間の脳の構造的に、複数の作業が並行して進行すると、1つの作業の進行中にもジリジリと他の作業への意識により集中力がすり減ってしまう。さらに、作業を終える度に得られる達成感が次の作業への起爆剤になる。これら2つの点からも、作業については、マルチタスクで進めるのではなく、順序立てて1つずつタスクを潰していったほうが集中力を持続させることが可能だそうです。

生徒がマルチタスクを求められるような場面は少ないのかもしれませんが、「to doリストを作成し、順序を決めて学習をすすめる習慣を作りましょう!」くらいの声掛けは有効なのかもしれません。


②については、作業に没頭した「フロー状態」に突入しやすい状況を自身で設定するというテクニック。確かに、没入感を意識的に引き起こす事ができるなら作業(学習)効率はぐんと高まりそうです。フロー状態に入るポイントとして、以下の要素が紹介されていました。

・集中を削ぐものを排除する 

・十分な時間を確保する 

・好きなことを行う 

・到達点を明確にする 

・少しだけハードルを高く設定する 

正直なところ、上記の項目については、自身で操作できないような環境要因も含まれているような気がするので、全てをうまくコントロールすることはできないような気もしますが、一応参考程度にまとめておきました。フロー状態を引き起こしたい、と考える際には抑えておきたい着目点です。



まとめと本音


前回まとめた「才能の正体」を踏まえ、教師がやるべきことで述べた部分と共通している点が多かったように思えます。『才能を伸ばすためには「認識」「動機」「情意」をケアしよう』という趣旨をまとめましたが、「認識」=「メソッド」、「動機」=「モチベーション」、「情意」=「マインドセット」と置き換えると、ほとんど同様の内容に思えます。

「脳科学のプロがまとめた!」という趣旨の本でしたが、冷静に「学校」に照らし合わせると、誰かしらが重んじている要素のなぞりのような内容であり、逆に言えば、このような本を読むことで、自身が軽視している部分を改めて考えさせられるチェック的な要素として用いることができれば、と感じました。 


2021年5月2日日曜日

「才能の正体」を踏まえ、教師がやるべきこと

坪田信貴著「才能の正体」をもとにしたお話です。GWで忙しいので少し雑です。笑


才能は結果で評価される


「才能に溢れた人物」を想像しましょう。できましたか?


つい、「才能に溢れた人物」と聞くと、奇抜な行動をとる人物を想像してしまいがちかもしれません。しかし、単なる「異質」は「才能がある」とは言えません。例えば、「ピカソの芸術(ゲルニカ)」や「ゴッホのエピソード(自身の耳を切り落とす)」といった特異な点をイメージしがちになりますが、それは特異な点なので意識されやすいだけです。実際、「理解されない芸術」や「自傷行為」だけをもってして、彼らの才能を語ることはできません。

では、改めて、「才能に溢れた人物」と「そうでない凡人」の差は何なのでしょうか。結局それは、「結果」に過ぎないのかもしれません。犯罪を犯した人物とノーベル賞受賞者、双方が「昔から人と違う行動ばかり取っていた」というインタビューが報道されていた際に、我々は「やっぱり」と考える場合には、同じエピソードに対して、その伴った結果で行動の評価を変えています。すなわち、我々の判断は「結果」に基づくため、単純な「行動」という次元では「才能」とまでは言えないのかもしれません。


確かに、運動や芸術の領域において「結果は伴っていないけれど、確実に『才能』はあるんです!」という事例に直面する場合もあるかもしれませんが、そのケースは既に「結果が出そう」という部分に着目しているから「(将来的に結果が約束された)才能(の種)がある!」という判断がなされているのだと思います。


よって、「才能」を言い換えるならば「結果の伴う能力」と言えてしまうのかもしれません。


となると、「才能」を「天が授けしギフト」と言ったりしますが、天賦のものかどうかは関係がなく、結果を伴うのであれば、後天的なものも十分「才能」に含まれそうです。



結果は「行動の模倣」により生じる?


では、「結果」とはどのようにすればいいのでしょうか。この場合の結果は「才能と評価されるに値する結果」なので、言い換えれば「先人とは一味違う、前例のないような結果」のように思われます。


「前例のない」と聞くと、真っ先に「オリジナリティー」をイメージしてしまいがちですが、注意が必要です。何故ならば、ある程度の段階までは先人が築き上げた「王道」が正しいからです。先人が通ってきた道を振り返り、最短だと感じられたルートを整備したものが「王道」であり「教育」です。もちろん、「教育」の中には管理側のご都合主義や科学的な裏付けのない偏見も多く含まれている可能性こそありますが、基本的には効率化された「高速道路」。少し遠回りに作られていて「抜け道」はある可能性こそありますが、コンパスも持たずに藪に突っ込んでいくよりよっぽどマシです。とどのつまり、才能を育むためには「先人の行動の模写」しかないようです。


いきなり我流で、オリジナリティーを求めないことを留意しておくことが重要なのかもしれません。例え「全く同じ行動を取ろう」としても、その所作の中に個性が反映され、それがオリジナリティーを生みます。そこで出た個性の芽を進展させた時、初めてオリジナリティーとして評価されるように思えます。よって、「才能」と評価されるためには「結果」を求められ、それを産み出そうとしたら「行動の模倣」が求められることになります




「行動の模倣」を継続するコツ


才能を発揮させるのは「行動の模倣」と上述してきましたが、一筋縄にはいかないです。というより、全員が全員、行動の模倣を継続させることができるのならば、世の中「才能ある奴ら」ばかりです。しかし、実際には継続は困難(故に価値が生じるわけですが)。


以下の3点を工夫をすると「行動の模倣」が継続し、「才能の開花」が見込まれそうです。というか、そのままこれは教育の話に着地します。


認知

「不可能」と思われる内容を捉え直し、「可能」な下位区分に解釈する


「行動の模倣」を行おうとした際に、その行動が理解不能であれば模倣はできません。よって、認知の面で工夫を行い、理解を伴える内容へと解釈し直さなければなりません。初期段階では、完全に学校で行われている「教育」です。解釈不可能な事象に対して、切り口を与え、解釈を可能にする。運動・芸術・学業、すべての領域で共通しているステップなのかもしれません。しかし、この「認知」というプロセスを「一方的に享受する」という段階を抜けなければ、師を超えることができません。教育者に求められるのは「認知の内容を伝える」ではなく、「認知の捉え方」なのかもしれません。よって、具体的な解答を教えるよりも、そのプロセスをともに歩むのが理想の形だと改めて感じます。



欲求

「達成後のメリット」をイメージし、突き動かす


単純な「認知の変革のサポート」だけでは「行動の模倣」は継続しません。教育的な言葉で言えばある種の「動機付け」に置き換えられるのかもしれませんが、継続した努力を実行した先の利点について明確にすることにより、人は努力を継続させることができるのではないでしょうか。「この努力の果てに〇〇がある」と意識付けたり、刷り込むことは、教育者としては少し洗脳っぽさもあるかもしれませんが、継続には欠かせない要素なのかもしれません。最終的には、自身により自分の理想を想像し、そこへ歩み続ける力が求められるのかもしれません。元々ハングリー精神旺盛なストイック人間には不要な要素かもしれませんが、欲に浅く控えめな人間は努力を積み重ねるのをやめてしまうのかもしれないので、何かの契機に確認し直す習慣が必要なのかもしれません。



情動

行動中のメンタルケア


認知と欲求だけでは、努力が求められる「行動の模倣」は継続できません。最後に求められるのは「情動面のサポート」です。上記の「欲求」とは異なり、ここでは、短期的な精神の管理を指します。努力を続ける上で生じた不安や憤りについてコントロールし、よりポジティブな方向へ転換させる必要があります。これについては「師」である必要はないので、恋人であったり、ルーティーンであったり、自身の感情をコントロールできるものであれば何でも良いのかもしれませんが、この情動面を無視していると、いつか投げ出してしまう恐れがあるようです。




まとめと本音


才能を突き詰めて考えると結局、単なる「教育」の話になってしまいました。「天武の才能」と思考停止してしまうと、私の仕事は虚無になってしまいます。「結局、才能かよ」と思わず、一つずつ丁寧に生徒の才能を開花させていきたいと思いました。