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2015年2月15日日曜日

アドラー心理学から学ぶ 協調のクラスづくり

アドラー心理学から学ぶ
協調のクラスづくり
アドラー心理学って何?
 本項では「アドラー心理学の信念」VS. 「そうでないやり方」を3つ挙げることで簡単にアドラー心理学をまとめます。

信念の違い1

全員が協力して課題を解決することで、各個人が過去の自分より伸びることが目標
  課題に関して他人と競うことで、各個人が他の生徒より秀でることが目標

 最もわかりやすい違いであるのが、「最終目標」とそれに対する「アプローチ」に対する姿勢でしょう。アドラー心理学では、昨今話題の協同(協働・共同)学習のように「協力」することを軸に学習を進めていきます。また、成長の基準は他者ではなく、過去の自身と置くことで、周囲との競争を教室内から排除することを可能にします。この本では、競争の原理を完全に否定しています。
 やや言葉足らずな抜粋になってしまう恐れがありますが、教室から競争の原理を排除することで、生徒は1) 高い自己評価を持ち 2) 世界を信用している 3) 集団への所属感に満ちた =健康な状態になれる、ということが書かれていました。
 かなり言葉足らずですが、その各効用の説明をします。

 1) 高い自己評価をもつ
          
教室には競争はありません。常に過去の自分との比較になります。この場合、基本的には生徒は成長し続けますので、自己評価は下がりません。よって、「競争を排除すれば、生徒は高い自己評価を持てる」となります。

 2) 世界を信用している

          
競争のない教室では、比較するような他人はいないわけですから、教室内に争うような敵はいません。よって、協力の動きが自然と起こり、世界を信用する体制が育成されるようになります。

 3) 集団への所属感に満ちた

          
競争はないということは、落ちこぼれや優等生という存在は発生しませんので、不用意な疎外感が生じづらくなり、代わりに所属感が生じます。

 このアドラー心理学の目標設定は「教師がそう思う」程度では無く、徹底したものでなくてはいけない、というのがこの本では強調されていたように思います。しばしば「教室におもいやりを」という標語を掲げているものの、なかなか生徒に反映されていない教室を見るように、これは教師の信念こそ間違ってはいないものの、それに向き合う姿勢と方法論(評価体制)等に問題があるのではないでしょうか。この本でも書かれている通り、例え教師が「おもいやりを重視します」と言っても、まず基本的に教師という職業柄、学習しない生徒に対しては注意してしまうでしょう。また、重視しようとしている「おもいやり」に関しても、仮に生徒のやりとりからおもいやりが見られた場合に、それを評価してあげることは困難です。というのも、「おもいやり」が発生する場面というのは基本的に生徒間ですから、そこに教師が介入することはほぼ不可能でしょうし、教師に対するおもいやりは捉え方を変えれば媚を売っているように捉えられかねません(ちなみにアドラー心理学では「教師と生徒の立場は平等」を掲げているので、教師に対する「おもいやり」は「媚を売る」とは一致しない、とのことです)。結果的に教師が「おもいやり」を重視していると思っていても、結局のところ学習に対する態度に関してしか触れることが出来なければ、生徒たちはこれらの目標に向かっては歩みづらくなるでしょう。よって、この本の通りに「協調」をメインに置くのであれば、従来の教師のイメージを刷新し、全ての挙動に対して見つめなおす必要があるのかもしれません。

信念の違い2

教師は生徒と対等な友人として、学習が促進することに専念する
  教師は尊敬される立場であり、知識の伝達に重きを置く

 アドラー心理学では「競争を持ち込まない」を超越し「教師が支配する」という関係に対しても切り込んでいます。というのも、様々な考え方はありますが、学校の本来の目的の1つには「生徒が生活していく上での力を伸ばしていくこと」です。アドラー心理学では、この手段として教師の「支配」は必要ではない、というスタンスをとっています。言い換えるならば、生徒が自主的に自身の能力を伸ばしていく、そのサポートを担うのが教師の役割であり、サポートという関係において支配は悪影響である、というスタンスでしょう。
 この信念を聞くと私はやはり抵抗を覚えてしまいましたが、この本での「友人」「対等な関係」であることは「アナーキー」的な「放任主義」とは一致しないということを強調しています。つまり、ここでの「友人」とは「支配者」と対になる存在として挙げた言葉であり、不用意な慣れ合いや放任主義を推奨しているわけではありません。そもそも、アドラー心理学では、「学習」とは個人が自身のために、またその自身の好奇心を元に進めていくものであり強要されて行うものではない、という捉え方を前提としています。そのため、最高の学習形態は自分の好奇心を発信源に自ら学んでいく、その際に教師はサポートする、というスタンスを奨励しており、これが「友人として」の立場に繋がっているのでしょう。

 この節を読んだ際、私は(私のイメージ上の)「予備校の講師」と真逆の存在だな、と感じました。私の思う予備校講師とは「知識の伝達を最大限効率的な形で提供する」という存在です。ここには生徒と教師の他に他者は存在しませんから共同学習とは真逆でしょうし、一方的に知識を伝達するという点においてアドラー心理学のように「教師も一緒に学ぶ」というスタンスも真逆だと感じます。
 ここで私は「双方の考え方は真逆であるのに、個人的には双方に『いい教師(講師)』と呼ばれる教師はいる」のではないか、と疑問に思いました。少し踏み込んで考えてみます。アドラー心理学のようないわゆる協働学習では、生徒は自分で模索する形で成長していきます。つまり、(その授業形態にもよるでしょうが、基本的には)学習の発信源は生徒自身の関心や動機であるため、外部から植え付けられた無機質な学習=<知識>とは異なり、自分自身に実感のある学習=<知恵>となるでしょう。この点に関して言えば、ひょっとすると教師が支配的であることは、生徒の学びを妨げてしまう恐れがあるかもしれないので、「友人」というスタンスが最善なのかもしれません(もちろん、教師としての役割は学習指導だけではないので、その点は考慮していないかもしれませんが)。すなわち、アドラー心理学での「いい教師」とは、生徒の主体性を最大限まで伸ばし、学習をコーディネートする存在です。一方で、予備校講師はサテライトや録画されたもので授業が出来てしまう点を踏まえると、基本的には一方的な知識の伝達がその職務の中心なのでしょう。というのも、予備校講師の職務は「生徒に大学入試で良い点を取らせる」という目標に特化しているため、この点では学校での授業より優れているのかもしれません。そもそも、予備校や塾ではそこに集まる生徒のニーズがハッキリしていますので、学習者の関心等を考慮しなくとも、「基本的には大学に行きたい」というベクトルに大学入試に特化した知識を乗せてあげればいい、と言えるかもしれません(が、塾でバイトしている限り、実際のところ生徒のモチベーション管理は重要な仕事の一つだったと感じておりますがここでは割愛)。故に、予備校講師での「いい講師」とは大学入試という目標だけに特化してコンパクトにまとめ上げられた授業が展開できる教師といったところでしょう。まとめてしまえば、最終目標が異なるために、同じ次元で良し悪しは言えない、というところでしょう。

信念の違い3

教師は司会者に専念し、ルールは民主主義的に生徒が制定していく
  教師が先導してルールを制定することで、独裁者の色を帯びる
 この信念でも私はやはり抵抗を覚えてしまいましたが、再度強調しますと、この本での「友人」「対等な関係」であることは「アナーキー」的な「放任主義」とは一致しません。つまり、ここでの「友人」とは「支配者」と対になる存在として挙げただけであり、不用意な慣れ合いや放任主義を推奨しているわけではありません。これらは生徒指導でも変わらず「友人として」のスタンスが奨励されています。教師はどうしても、そのルールのみを強調するために支配的で一方的な存在になりがちとなり、その結果生徒と摩擦が起こり不要な反発を引き起こしてしまうようです。しかしながら、ルールとは何かを守るために存在しているという経緯を辿り、その経緯を生徒に納得させることができるならば支配的になる必要はない、という説明がなされていました。すなわち、一方的な押し付けは反発や摩擦を生むため、同じ目線からルールとその考え方を共有していく、というスタンスが重要視するようです。

「クラスはよみがえる」を読んだ際の感想

 素晴らしい本である、これは間違いないと思います。というのも、多くの教師の根幹には「生徒を支配する」という考え方は存在するのでしょうが、そうでないやり方を知るには最善の本ではないでしょうか。私は基本的に支配的な教育しか受けてこなかった、というかこの本で紹介されているような手法で授業を受けたことがないので、やり方がわからない、というかアイデアがそもそも浮かばない人間ですので、非常に得るものは大きかったと思います。ただし、アドラー心理学の中途半端な導入は、私の指導のスタンスにブレを生じてしまいそうなので、しばらくはじっくり見つめたいと考えています。
 一方で、この本は若干極論が多いという印象を受けてしまいました。読んでいて少しアドラー心理学以外での手法に対して厳しい見方、というか偏見・敵意に満ちた言葉回しが多いと感じました。というのも、この本の冒頭に触れてあるのですが、この著者はカウンセリングの方面の方であり、この本以外の手法により傷ついてしまった生徒を多く見てきていたからなのでしょう。この本では「私たちの立場ではこう行動します。もしそれ以外の立場であれば、このように行動し、生徒を傷つけてしまうのです。」ときっぱり記載されているケースが多かったのですが、極論すぎる印象を受けてしまうというか、例え信念が違えども大前提として子どもの成長を願う立場にいるならばそのような行動はしないだろう、と感じる面がありました。

 ぜひ、読んではいかがでしょうか。

野田俊作 萩昌子 『クラスはよみがえる 学校教育に生かすアドラー心理学』 創元社

2014年8月11日月曜日

大学入試は良くなれない? ※個人の見解


2014年度 全国英語教育学会で聞いたシンポジウムをもとに、自分なりの大学入試に関する見解をまとめてみます。

大学入試は良くなれない?

あくまで個人的な見解なのですが、大学入試が万人にとって最高の形になることは不可能だと考えます。その理由は、大学入試には様々な立場からのニーズが存在し、それら全てを解消することはできないからです。

大学側の入試へのニーズは「学術的に求められる英語を限られた予算の中で測定し、質の高い入学者を選別する」であることが常です。大学では、論文を正確に読めたり学術的に質の高い文章の産出が求められ、英語による日常会話はあまり重要視されません。大学の目的は様々ですが、その一つが研究ですから、当然なのかもしれません。また、研究が主な目的ですから、その選抜のための試験にはあまり予算を割いていられません。面接による直接テストが好ましいのかもしれませんが、これには多くの予算がかかります。「いい学生を求めるために面接を導入したがために、受験料が上がり、結果的に受験生が敬遠する」となると本末転倒です。よって、ペーパー試験の方が都合がいいのです。さらに試験という性質上、学習者を学力に応じて分別しなければならず、簡単過ぎる問題を出すわけにはいきません。また、最近の大学入試は簡単になり量が増えるという傾向がありますが、問題数が増えれば作成や採点にも時間がかかるため、難しい問題を用意するのが一番ニーズに適っています。結果的に大学側からすれば「予算の安いペーパーで、研究に必要な知識を、難しいめ問題で確認する」のが効率的です。

一方、高校側の入試へのニーズは「授業で扱った内容の定着度を測定して欲しい」というものです。高校の授業内容は通常学習指導要領で規定されており、その根幹は「コミュニケーション能力の育成」となっています。そのため、英語科の授業では従来の訳に傾倒していた授業形態が否定され、コミュニケーション重視でのスタイルが奨励されています。(もちろん、コミュニケーションというものを冷静に捉え直せば、単なる英会話だけがコミュニケーションではなく、筆者と読者の正確なやりとりである訳読等も重要なコミュニケーションの一部に該当すると思うのですが、従来の反動なのか最近の英語の授業では異様にこの訳という作業がタブー視されてきたように感じます。)この制度上の背景から、高校での授業は英語のやりとりを中心に取り扱いたいのですが、高校の出口である大学入試が訳読する力を求めていることで、ジレンマに悩まされます。生徒の進学を優先すれば指導要領を無視してしまうことになり、指導要領を優先すれば生徒は授業についてこないかもしれない(現段階での私見では両立の道も存在していると思っていますが、(これはあくまで偏見ですが)教材が指導要領に合わせたもの・受験に合わせたものとはっきり分かれている、両立するための教授法が確立されていない点から、教師が相当試行錯誤しなければ不可能だと思っています)。結局、高校側からは大学入試には読解をメインで問うものではなく、コミュニケーションを測定するモノ、特に直接テストの様な形式で、産出面をもっと評価して欲しいというニーズが生まれます。そして、従来のような学術的な内容ではなく、もっと日常生活に基づいた(言い換えれば難易度を落とした)題材を使って欲しい。さらに、生徒は全員が裕福であるわけではありませんから、予算は抑えて欲しい。その結果、高校側が大学入試に求めるものは「予算のかかる直接テストで、実用レベルの英語でのコミュニケーション能力を、日常に身近な題材(簡単な問題)で確認する」ものであり、且つそれを安価な形で要求しているのかもしれません。

結局、両者でのニーズが大きく異なるために、そもそも「良くしよう」といったときの「良い」のベクトルが異なるため、両者にとって完璧な試験は存在しないのかもしれません。

「英語は必要だから生徒はついてくるでしょう。」

このことを考えている際に、以前数学の先生から言われた言葉「数学は将来いらないけど、英語は必要だから生徒もついてきて楽でしょう」というのが頭をよぎりました。受験に関しては数学も必要なのは同じ点を踏まえると、この言葉の中の「必要」は指導要領上の「コミュニケーション能力」を指しているのかもしれません。一方で、そのコミュニケーション能力を重視した英語に傾倒した授業をすれば、特に高校3年生から「先生の授業は英会話はできるようになるのかもしれないけど、入試みたいな難しい文章は読めるようにならない」という不平が出るのは容易に想像ができます(実際に、塾に勤めていた時には、このような「学校の授業が受験と関連しておらず、やる気が起こらない」といったことを耳にしていました)。様々な英語のニーズが求められている現状で、本当に英語を教えることは簡単なのでしょうか。

高等学校のカリキュラムの出口である大学入試が変われば、英語教育は過去の文法訳読式の形態から指導要領の目指すコミュニケーションの方向へスムーズにシフトできるのかもしれません。一方で、制度上大学入試を変えるのが困難なのもわかります。両者が動かない状況で、昨今話題になっている外部試験導入がどのように影響するのか、、、と、考えれば考えるほど試験の「良い」とは何なのかわからなくなってしまいます。

果たして、今後どうなるのでしょうか。個人的には高校側の意見が採用されればいいなぁと思う一方で、そんなことになれば予備校はどうなるのか心配です。


2014年3月1日土曜日

『高校中退』を読んで -知っておきたい高校中退-

本記事は宝島社新書 『高校中退』 杉浦孝宣著 を読んだまとめ・感想です。

高校中退するとどうなるのか

高校中退者は全国で年間5万人という無視できない数字です。社会を知らない中高生にとって、「高校卒業しないと社会でやっていけない」という感覚は実感しにくいようです。
では、中卒に待ち構えている中卒に待ち構えている現実とはどのようなものなのでしょうか。本書では以下のことがまとめられていました。

  高卒に対して10倍以上の差で就職先がない

Ø  さらに職種が林業・製造業等に絞られ、志望されない

  劣悪な労働条件

Ø  生涯賃金の格差が16500万円


このように、「高校中退」という進路を選択してしまうと、現状の社会体制では「本来個人が送りたかった人生」が叶わなくなるのではないでしょうか。高校中退にも様々なパターンがありますが、「何となく高校に通うことが違う気がする」といった漠然とした理由での高校拒否の場合は、その先に待っているさらなる不自由を教えておかなければいけないかもしれません。(もちろん、いじめ等が原因の場合はさらに追い込むことになるので、慎重な判断が求められると思います。)

どのような経緯で高校を中退したとしても、結局「高卒認定試験」「単位制通信高校」「編入・転校試験」を受けることで何とか高卒資格を遠回りしながら獲得するのが一般的なようです。この選択をしてしまった場合、中学卒業時から3年間で資格が取れるとは限りません。高校生にとっての1年間は非常に大きく、人より1年間長い学校生活は過酷と思われるので、苦しい思いをしながら高卒資格を獲得する前に何として「高校中退」は避けなければならないのではないでしょうか。

 また、本書『高校中退』では、高卒認定試験を目標としている塾の目線から実際に高校を中退した生徒の実態が紹介されていました。興味のある方は読んでみては如何でしょうか。(ただ個人的には、紹介されている内容に高等学校への批判が多く含まれており読んでいて心が痛みました。本書では「このような職業柄、高等学校の良くない面ばかり見えてしまう」という注意書きこそありましたが、仮に書いてある内容が本当なのであれば、大問題と成りうる内容が多数含まれていました。(生徒が圧倒的に不利になる時期を狙って退学させる、高卒認定試験の推薦書を送付しない等))


一方で社会は不登校・高校中退を許しがちである


現在社会における「不登校」という問題は過去とは少し変わってきているのではないでしょうか。学校に来ない生徒に対し教師は簡単に「お前、甘いよ」と言うことは許されず、世間には自分らしさを探求していこうという風潮が蔓延することで、「不登校にはそれなりの理由があるから仕方ない」とする社会の流れが存在するのではないでしょうか。その結果、親・子ども・学校が不登校というものを簡単に許容してしまいがちになっているのではないでしょうか。本来の教育とは「不登校を許容する」ことではなく、「共になって不登校と向き合う」ことなのではないでしょうか。高等教育ではしばしば「義務教育ではない」という言葉を盾に面倒な問題を家庭や生徒本人に任せきりの側面があるように思えますが、それは教育の放棄であることを自覚すべきであり、不登校・中退に対して「しょうがない」といった肯定的な態度をとることは本来あってはならないことでしょう。


不登校を立て直す3つの原則

著者は多くの高校中退者と接する29年の中で、不登校を立て直す以下の3つの原則を確立していました。

1. 規則正しい生活を送る

2. 学力を確立する

3. 環境を変える (転地する)

1.の「規則正しい生活」に関してはうつ病とも関連があるそうですが、ここでは説明を省略します。生徒の生活リズムは徹底して管理していかなくては、不登校をなくすことはできないようです。(以下は個人的な感想です。教師という職業は生徒の生活リズムまで管理しなくてはいけないものなのでしょうか。確かに「生活リズムまで管理する」と色々切り離して考えてしまえば、生徒は学校を離れているので本来の職務では無いように思えます。しかし、「生活リズムが不登校の第一段階に成りうる」と知ってしまったらどうでしょうか。生徒の生活リズムが崩れているのを知っておきながら「個人の自由だ」と判断できないのでは、と個人的に考えてしまいました。となれば、教師は生徒が自立するまでどこまで支援しなくてはならないのでしょうか。うーーん、、、)

2.の「学力を確立する」に関しては、『学力がなければ高校も卒業できず、大学にも入学できない』と短く書かれているだけでしたが、非常に共感する部分がありました。学校とはその時間のほとんどが学習に使われます。授業内容が理解できる程度の学力があれば、その内容に注意が向かうので何とか教室に留まることはできるでしょうが、その学力がなければ、授業についていけず授業中の時間は軽い拷問と成り代わっていまいます(大学では興味のない授業は出席しないことが許されていましたが、高校は強制参加です。自身の大学時代を振り返って比較してみると、高校生ってスゴいなぁなんてわけわからない感想をもらしてしまいます…)。よって、不登校にさせないために必要な要素の1つに学力が挙げられるようです。逆に言えば、勉強の出来ない生徒には不登校にさせない配慮が必要なようですね。

3.の「環境に変える」とは、本書内では一般の高等学校とは別で存在する高校教育制度が該当します。現状では通信制高校が一般的なようですが、この通信制高校の大きな問題は生活が不規則になってしまい続かない恐れがありますので、定時制高校や高卒認定予備校なども視野に入れておくべきでしょう。教師が受け入れ先を知っているかどうかは大きな違いを生むと思います。無理に生徒を学校に縛り付けたり、無慈悲に退学申告させず、次の環境に身を移す選択肢を持つことができます。容易に使うカードではないでしょうが、持っておきたい切り札かもしれません。




本書を読んでの一番の感想は、「教育放棄の概念の拡大」です。規則に従った上での退学宣告、不登校を「仕方がない」と言って様子を見る、これらの行動は一見教育的に見えるもののきちんと考えてみれば、単なる教育の放棄に該当するのではないでしょうか。一方で、大勢いる生徒全員の生活にまで注意を向けることは不可能です。結局、「やらなければならない・やった方がいいことは多いけど、現状ではやるだけの方法・時間・人材が足りてないんじゃない?」というどうしようのないところに行き着いてしまいます。が、これも個人の意識で変えることの出来る部分もあるかもしれません。不登校と向きあう日がいずれ来るかもしれません。考えるいいきっかけになりました。

2014年2月18日火曜日

鈴木翔『教室内カースト』を読んで

鈴木翔『教室内カースト』を読んで


以下は 鈴木翔『教室内カースト』を簡単にまとめています。(時間があまりないため、印象に残った部分を簡単に内容をまとめただけとなっています。)


我々が自身の学校生活を振り返った際に、多数の方が(いじめに満たないものまで含む、広い意味での)上下関係を感じたことがあるという。本書では上位に位置づけられる「1軍」、下位に位置づけられる「3軍」の簡単なチェックリストが記載されていた。以下は本書で紹介されていたリストの一部(pp.34)を省略・抜粋したものである。(森慶一「学校カーストが『キモメン』を生む-分断される教室の子どもたち」の直接引用のようです。)


  あなたの子どもは1軍? それとも3軍? チェックリスト
1軍、Aランク特徴】
  サッカー部、バスケ部、野球部のいずれかに所属
  遠足はバスの最後列を仲間内で占拠
  休み時間はクラスで仲間と騒いでいる
  学級委員や生徒会など面倒な仕事はCランクに押し付ける
  制服を改造したりインナーを変えるなど、工夫している
3軍、Cランク特徴】
  文化系、または卓球部に所属
  修学旅行や体育の時間にグループ分けで余る
  外見を気にしない(髪型や眉毛の手入れ、ニキビのケアをしていない
  異性とコミュニケーションを取れない
  オタク趣味である


私も自身の経験を振り返ると確かに、上記の項目に該当する生徒はいわゆる「1軍」「3軍」としてそれぞれのポジションに固定されて、確かに一定の上下関係が存在していたように感じる。もちろん簡単なチェックリストに過ぎないので、必ずしも当てはまるわけではないが、上記の項目の諸要素は何となく正しいような印象を受ける。

本書では、上記に見られるクラス内の上下関係である「スクールカースト」を、いじめとの関連という観点からではなく、「スクールカースト」そのものの実態を調査・紹介している。「スクールカースト」の定義は以下の通りである。(pp.29) (森口朗「いじめの構造」の直接引用のようです。)

スクールカーストとは、クラス内のステイタスを表す言葉として、近年若者たちの間で定着しつつある言葉です。従来と異なるのは、ステイタスの決定要因が、人気やモテるか否かという点であることです。上位から「一軍・二軍・三軍」「ABC」などと呼ばれています。


スクールカーストそれ自体はクラス内での上下関係であり、それがいじめそのものとは一致しないのが注目すべき点だと思います。いじめは身体的・精神的な苦痛を伴うものですが、スクールカースト自体は単なるクラス内の位置づけであり、各ポジションに割り当てられた生徒が苦痛を感じているとは限らないという特徴を持ちます。
自身の経験を振り返っても、やはり(卓球部を除く)運動部は積極的に発現する場面が多い記憶があるし、彼らの主張が多少強引でも押し通ってしまう場面を見た気がする。逆に、文化系の部活に属していた生徒は損な役回りを引き受けがちだった覚えもある。ただし、彼らがそれらを苦痛と感じていたかと言われると、そうではなく「キャラ的にしょうがない」と納得していた気がするし、各グループ内ではそれなりに楽しそうな学生生活を送っていたように思える。

ただし、スクールカーストそのものはいじめとは一致しないものの、いじめと重ねあわせて考えると、やはり3軍と呼ばれる立場の低い人がいじめの対象になることが多いという。この点では、スクールカーストはいじめを助長する人間関係とみなすことができる。実際に下位グループに属していた経験を持つ生徒の声が記載されていたが、グループ内では楽しかったもののグループ間での接触が起こる際には陰鬱になったようである。また上位グループに属する生徒は、優越感に浸る場合が多いようだが必ずしも幸せというわけではなくそのポジションにふさわしい振る舞いが求められるため窮屈さを感じていたという声が記載されていた。
しかし、スクールカーストは生徒が自主的に意図して形成しているものではない。「にぎやか」で「気が強く」「異性の評価が高い」生徒が自然と上位グループを形成していき、そうではない「地味」で「目立たない」生徒が自然と下位グループとみなされていく。これらは、生徒のキャラクターに依存するものであり生徒自身が変えようとして変えられるものではないことが直感的にもわかる。自然と形成されていくものにも関わらず、その人間関係は生徒にとって不快な環境を生みかねない上下関係となり、彼らの学生生活に大きく影響していくのである。


上述のように、スクールカーストそのものはいじめではなく、彼らの趣向や帰属意識により自動的に慶されていく人間関係である側面を持つので、教師はこれらを「いじめ」として対処することは非常に困難のように感じる。実際に不平等な仕事の押し付けがまかり通ったり、一方的にバカにする場面が見受けられるものの、下位に属する生徒が苦痛を感じていなければ、現状のいじめの定義では対処することができない。いじめの発生源であるとわかっていつつも、問題が起こるとは限らないし、生徒同士も無意識で完成させた人間関係であるために、教師が介在して対処していくことは不可能のように思われる。

興味深く感じたのが、教師から見たスクールカーストの映り方である。スクールカーストは生徒から見れば不愉快で固定的な上下関係であり、彼らの学生生活を考えれば危険な環境であるが、教師はこれらの関係を「コミュニケーション能力の現れ」と見なし、問題視していない、故に助長させてしまう側面を持つようである。上位グループに属している生徒は、教師にとって「にぎやかで活発な生徒」とみなされる場合が多く、また、彼らの意見は押し通ってしまうので一種のリーダシップ・カリスマ性・コミュニケーション能力と映る。そして彼らは自己主張が強く手がかかることから思い入れが強くなりがちで、教師からすれば「かわいい生徒」と映りやすく、優遇されてしまうケースが多いようだ。一方、下位グループは教室内において自己主張がなかなか許されないために、教師から見ると「よくわからない・何も考えていない・決断力のない生徒」とみなされてしまうことがあるという。彼らは立場上自己主張がしづらいために周りの意見に流されがちであり、それ故に教師は自己決定を避ける怠慢な生徒のように映ってしまうこともある。これらを踏まえた教師の言動はさらにスクールカーストを助長させていくことになる。

生徒にとっては「権力関係」、教師にとっては「能力の顕在化」とみなされるスクールカースト。これらの具体的な対策は未だ見つかっていないようである。しかしながら、教師はスクールカーストの存在を知り、きちんとその内情を考慮しなければならないだろう。
非常に興味深く拝見できる一冊でした。



鈴木翔『教室内カースト』光文社新書

2014年2月7日金曜日

英語を勉強する意味 デューイ『民主主義と教育』を読んで

大学院の授業にて、デューイの『民主主義と教育』を読む機会がありました。
以下は、授業の最終課題として書き上げた感想を、ブログ用に整えたものです。

テーマは「どうすれば英語を勉強できるようになるのか」です。

どうすれば英語を勉強できるようになるの?


-個人内における英語の「価値」-


 私たちは好きなことであれば、何でも覚えることが出来ます。どんなに外見が類似しているガンダムだって、私は勘違いすること無く名前を挙げることが出来ますし、ちょっとマイナーな芸人であるラーメンズであれば、そのコントのワンシーンをパッと見れば、そこでのセリフをほとんど再生することができます。このことから考えると、私たちの頭は大容量ハードディスクであり、ものすごい効率で情報処理が可能なスーパーコンピュータと呼べるでしょう。

 好きなことだったら何だって覚えられる・処理できる・向き合える一方で、私たちは「勉強」となると受け付けなくなるから不思議です。好きな歌ならば、その歌詞・メロディー・背景情報まできっちり覚えられるのに対し、例えば「教科書の英文暗証」には大変な労力を割かなければいけない印象があります。私個人の話をするならば、ラーメンズのコントならその言い回しを一つ一つ記憶できるのに、英語のコロケーションはいつまで経っても身につく兆しはありません。

 さて、前述の「ガンダム」や「ラーメンズ」は一般的に趣味というカテゴリーに含まれると思います。趣味はあくまで趣味であり、「この趣味を使って一儲けしてやろう」なんてことは考えておりません。趣味は、直接的には利益とは結びついていないように感じます。趣味は利益を生じないのに関わらず、私たちは趣味ならば他人の監視や明確な目標や理由が無くとも延々と繰り返すことが出来ます。端から見てみると、「何でそんなにやってるの?」と疑問が浮かぶほど趣味に没頭する人はそうそう珍しい話でもないので、趣味への没頭は精神的な異常による固執でもなさそうです。
 また、他人の趣味に対して、仮に理解は示せるとしても、完全に共感して一緒に楽しく延々と繰り返せるケースは多くないことから、どうやら趣味に対する考えは万人共通ではないことが伺えます。つまるところ、趣味には個人の中で、特有の「価値」が生じているようです。(以下では、万人に共通する価値は括弧なし、個人内に生じる特有の「価値」については括弧付けで表記します。)
 趣味には自身の中に「価値」が確立しているので、どれだけ繰り返してもなかなか疲労感は蓄積せず、むしろ心が開放される感覚すら覚えるようです。つまり、自身の中で「価値」が生じているので、やればやるほどその価値に触れられ、満足感が生じるようです。その満足感のために、私はラーメンズのDVDを何度も繰り返し見れますし、トランペットの練習は唇から出血するまで行ったこともあります。
 一方で話が勉強となると、通常多くの人は長続きしない、もしくは非常に困難で辛いものというイメージが生じがちです。まずは身体的負担について考えてみましょう。その苦痛は、趣味が継続的に行えることを基準に考えるならば、並大抵のものではないように思えます。前述の「口から出血しようともトランペットの練習なら行える」という事例を基準とするならば、「おとなしく座って本を読む」なんて、圧倒的に楽な作業に思えます。しかし、実際にかかる身体への負担という側面で考えると、趣味に対して勉強が続かない説明はつきません。
 趣味に対して勉強が続かないことを、身体的負担で説明出来ないようなので、価値という観点で考えてみましょう。ここでは英語を例に挙げてみます。英語を勉強すると、「外国人とも会話でき世界が広がり」、「洋楽・洋画をより楽しめ」、「扱えるだけでカッコよく見えます」し、「受験や就職で有利」と、もはややらない理由が考えられないくらいいいこと尽くしです。少なくとも、私の趣味「(マイナーなお笑いコンビの)ラーメンズのコントを暗記する」ことのメリットは絶対に及ばないでしょう。このようにメリットや理屈では圧倒的に英語を勉強する意義は強い。それなのに勉強となると継続は困難になります。
 勉強になると実践できないのは何故なのでしょうか。それは勉強に対しては、自身の中で「価値」が生じておらず、その必要性を体で感じていないのかもしれません。結局は「頭でわかっていても、体で「価値」を感じていないと続かない」と、最近考えるようになりました。デューイは『民主主義と教育』の中で、学習は生徒の日常の中で生じる疑問で行わなければならず、成長は世間に対する対応力を高めていく変容であると述べています。私はこの本を読み進め、最終的に「勉強は頭の中でできることではなく、体・心までついてこないとできない」という考えに行き着きました。
 近年、私たちは大量の情報・テクノロジーに囲まれ生活を送っており、もはやこれら無しでは生活出来ないと感じています。しかし、我々は本・ネットの中に生きているわけではなく、あくまで道具として用いることにより実生活を行っているので、どれだけこれらの道具、科学が発達しようとも、結局のところそれを用いる人間の身体や精神は伴います。すなわち、身体や精神の領域から目を背け「学習」を科学で語ろうとしても限界を迎えるように感じました。つまるところ、世間一般で言われている英語学習のメリットを山ほど並べたところで、そこに人間の体や心が「価値」を見出さなければ学習の継続にはたいへんな労力を伴います。



 ではどうすれば、教師として教壇に立った際に、生徒の中に英語の価値を確立させることができるのでしょうか。前述のとおり、単に英語のメリットを理解させるだけでは頭の次元までしか通用しないために効果は薄いことが予想されるため、心まで動かさなくてはいけません。しかし、多くの人が経験から何となくわかるでしょうが、人の心を動かすのは容易なことではありません。今回考えた3つの方法を以下で紹介しますが、これらは一朝一夕で実践できることだとは考えていません(ましてや実際に教壇に立ったことのない、大学院生のおべんちゃらに過ぎない程度です。)よって、以下では教壇に立つ上での心構えとして掲げながら、きちんと生徒一人ひとりと向き合い対応しなければならないことを前提として紹介します。


 まず1つ目の方法は「英語そのものの面白さから英語の価値を生じさせる」ことです。イメージとしてはテレビ番組のアメトーーク、実際にはないのですが「英語芸人」です。テレビ番組アメトーークで、毎週テーマごとに集められた芸人が自分たちのテーマをもとに面白おかしく展開されていくバラエティ番組です。この番組では数多くのテーマを取り扱うため、テーマによっては一切の背景知識がない場合があります。しかし、「身近でない」・「背景知識のない」ようなテーマであるのにかかわらず、出演者は面白おかしくそのテーマを紹介し、笑いをとります。番組が終わった際には、「何か面白そうだな」と思ってしまいます。私は、このアメトーークの構図が、英語の内容面に重きを置く英語の授業と非常に通じていると感じています。つまり、英語のマニア(芸人)である教師がその内容の面白さを視聴者である学習者に伝え、学習者内に面白さという「価値」を引き起こし、授業に引き込む。笑いの有無に関わらず、そこで行われている行為は類似しているのではないでしょうか。

 この方法で教師に求められることは、徹底した教材研究だと思います。この教材研究はひとりよがりであってはいけません。「視聴者である学習者がどのような内容なら関心を示してくれるか」、「どのように運べばきちんと楽しんでもらえるか」、「どう使わせたら生徒は家で教科書を見返させられるか」、教材研究には常に視聴者である学習者を想定しなければなりません。単なる教師の目線からだけではなく、まだ英語習得の長い道のりのスタートラインに立っている生徒まで近づき、教材の下見を行い、丁寧に先導しなければ生徒は迷子になってしまい、ゴールを見失い、英語が嫌いになってしまいます。英語という側面から生徒を引っ張るためには、「綿密」且つ「視野の広い」教材研究が必至なのではないでしょうか。


 2つ目の方法は「個人内の別の価値観と英語を(無理やり)関連させる」ことです。塾での個別指導では、英語というか勉強に全く興味のない生徒を受け持つことが多々あります。以前、音楽が大好きでバンド活動を行っておりベースを持つと眠れなくなるものの、英単語帳ターゲットを持つと10秒で眠れる的なことを豪語する生徒を塾で担当したことがあります。彼が高校3年生になった4月当時、彼の中では「大学に行くこと」は実感がなかったようで、英語を勉強する意義が見いだせず、口を開けば「英語が嫌いだ、やりたくない」と、学習は継続できる状態ではありませんでした。(さすがにオーバーに書いているのか...?いや、彼は「単語テストの追試が嫌すぎて退学してやる」とも言っていましたから、言い過ぎではないと思います。笑) 彼はバンドマンだったのですが、たまたま私もバンド経験者だったので、よく生徒が練習している曲について話が盛り上がったのですが、彼の身の回りの曲は英語の歌詞ばかりで非常に違和感を覚えました。「英語を勉強すれば自分の演奏している曲のメッセージがわかるよ」と伝えると、彼は半ば「仕方ないか」といった様子で単語テストに精を出すようになり、学習が少しずつ積み重なるようになりました(英語を勉強し始めた理由をこれだけとは言えませんが、1つの理由にはなっていたと思います)。今のは非常に限定的な一例ですが、中学生・高校生である生徒の中には既にきちんと価値観が生じている場合が多く、彼らの既存の価値観と教科の関連を教師が示すだけで、彼らは「英語の価値」を確立してくれるかもしれません。
 この方法には、若者文化に精通していたり、幅広い趣味・教養が求められます。教室の後ろでたむろするやんちゃな生徒に対して魅力的な洋楽を紹介できるための音楽の教養であったり、部活しか頭にない生徒に対しサッカーの英語サイトを紹介するための情報網であったりと、教師は広い領域の文化に精通しておくと、ひょんな場面で彼らの学習につなげることができるかもしれません。


 3つ目の方法は「(英語という要素を取っ払い)自尊心のために使用する」ことです。しばしば勉強に取り組めない子の多くは、特に勉強に対して苦手感情を強く持っている場合が多いように感じます。そのような場合、ひとまず英語という勉強が成功する感覚を覚えさせ、取り組みに対して楽しさを見出してもらうことは、一つの方法だと考えます。これは英語という教科にとどまらず、すべての勉強・または掃除等の生活全般に当てはまるのではないかと思います。以前達人セミナーで、上山先生が「生徒が家庭学習に取り組むためには、その成果が見られるような仕掛け作りをすることが重要です」とおっしゃっていました。そうすることで、生徒の取り組みが明示的に残り、自分の成果を自覚することで自尊感情が生じるそうです。さらにそれらが褒められたりすると、それはそのまま「英語は褒めてもらえる=他人から評価され得る「価値」」へと変容する可能性があります。この方法は、生徒自身が自分の成長を感じられる場合だけでなく、生徒が認めている周囲の人から評価されることで、その効果を強く発揮する側面があるように思われます。ただし、評価してもらえる人物がだれでもいいかというと、そうではないように思われます。例え実際に地位のある校長先生から褒められたとしても生徒がその存在を高く感じていない場合はあまり効果を発揮しない可能性があります。できれば尊敬されている教師・もしくは親しい友人から評価され得る機会を作ってみることがいいのかもしれません。生徒に「俺って英語なら、やればできる」という感覚、「英語なら評価され得る!」という仕掛け作りで、生徒の中に「価値」を生じさせる要素は、授業に取り入れてもいいのではないでしょうか。(もちろん、これについては過剰な競争性に陥らない注意が必要だと思います。)


 とつらつらと述べてきましたが、振り返って思うのは結局のところ、相手は人間、しかもその価値観ですから、本来は直接操作することが出来ないものです。生徒が英語に「価値」を見出すことには3ヶ月、長ければ3年かかってしまうかもしれません。
 しかしながら、彼らの心に英語の「価値」という種が根付かなければ、教室でいくら良い肥料や水を与えたところで成長してくれません。体で必要性を感じていなければ、学習は継続しませんし、仮にやったとしても、直ぐに頭から抜けてしまいます。教師は試行錯誤しながらも、生徒の心に英語の「価値」が根付くのをじっくりと待たなければならないのかもしれませんね。

2013年11月21日木曜日

テストが引き起こす波及効果を考えよう

本ページは靜哲人(2002)『英語テスト作成の達人マニュアル』の内容のまとめと、それに対する自分の意見を簡単にまとめたものです。

テストを作るにあたり、テスト作成者はその波及効果を事前に考えなければいけません。

波及効果 … (テスト論においては、)テストが学習者に及ぼす影響の総体

波及効果には、望ましい効果と、そうでない効果が存在します。以下では、これらを具体的に挙げる中で、テストを作成する際の波及効果の重要性を考えてみたいと思います。

○ 望ましい波及効果
 以下では、望ましい波及効果の一例を紹介します。
l  「話す力を伸ばしたい」からスピーキングテストを実施する
l  発音する技能を伸ばしてやりたいから、発音の技能が必要なテストを行う
l  すばやく多くの英文の該油を把握する力を伸ばしたいから、すばやさが求められる文量のテストを実施する

この例からわかるのは、望ましい波及効果を生むためには、「指導の対象」をきちんと評価内容に反映することが必要なようです。学習者が「テストに出ないことは勉強しない」というのは世の常であって、むしろ教師はこれを最大限利用するべきなのでしょう。自分の指導で重視している内容はきちんと小テストなり定期テストなりに反映することが、学習者のモチベーションを管理する上で必要なのかもしれません。


  望まれない波及効果
以下では、望ましくない波及効果の一例を紹介します。
l  英文和訳を出題する
Ø  英語は必ず日本語に直しながら読む、という態度を押し付けてしまう
l  書かせる問題として和文英訳を出題する
Ø  他人の書いた日本文を英語に「直す」という練習を課してしまう
l  1つの長文の中で、内容的な要点には関係ないが、構文的に複雑な部分を問題にする
Ø  長文の要点よりも、複雑な構文に対して、歪んだ重要度を見出してしまう恐れがある
l  ごく少量の英文のみを出題し、内容の流れとは直接関係のない問題(派生語を書かせる、発音を問う、語の文法的用法を問う)を多数設定する
Ø  学習活動においても、ごく短い英文を、内容に関係なく「解剖」しつくしがら読む、という読み方を押し付けてしまう

  また、特定の問題形式が出題されないことによる波及効果についても例が挙げられていました。
   l  リスニング・スピーキングテストを実施しない
Ø                        Ø   学習者がこれらの能力を軽視してしまう
   l   自らの考えを英語で表現するライティング問題を出題しない
                Ø  自己表現のためのライティングという在り方を軽視させてしまう

 これらから見て取るに、一種の歪んだ評価体制を設けることで、学習者の学習を歪めてしまう恐れがあるようです。自分が生徒だったころを思い返しても、なかなかテストに出ない内容は本腰を入れる気分にはなれませんでした。そのことを踏まえると、「伸ばしたい内容はテストで聞く」ことは意識して置かなければならないことなのかもしれませんね。


参考文献

靜哲人(2002) 英語テスト作成の達人マニュアル

2013年11月3日日曜日

Bachmanコミュニケーション能力―communicative language ability―


テストを行う上で、もしくは教育を実践する上で、我々は「言語を使用するとは何か」という大きな疑問にぶち当たることがある。以下ではBachman(1990)よりコミュニケーション能力(communicative language ability)のモデルをわかりやすく紹介したい。

 大まかな構成は4

Bachmanの唱えるコミュニケーション能力は、大まかに言うと4つの要素で構成されている。本記事では、この4つの要素がコミュニケーションの中でどのように機能するかを簡単に紹介する。(先に留意して置かなければならないことは、本記事では以下の4つの要素が記載する順番で連続している印象を受けるかもしれないが、この順序に大きな意味はなく、単なる便宜上に配列である。)



  心理・生理的機能 -Psychophysiological Mechanisms

我々がコミュニケーションを行う際には、まずの目の前の状況を五感で感じ、その状況に合わせてコミュニケーションの形式を変えるだろう。例えコミュニケーションの関与者の目の前に同じ状況があっても、感じ方は個人によってことなるだろう。例えば、極度の上がり症の人は、そうでない人と同じ程度のコミュニケーションの方法や知識を習得していたとしても、実際に異なる形のコミュニケーションを行うだろう。このことから、受動的側面において、視覚や聴覚といった個人の神経的・身体的特性がコミュニケーションに関わってくることが考えられる。また、異なる話者が同様のコミュニケーションの形式をとっても、声の高さや低さ、話者の体格や表情が違えば、コミュニケーションそのものは異なるものに見えるだろう。このことから、産出的側面においても、個人の心理・身体的特徴がコミュニケーションに関わってくることが考えられる。これらの受動的・産出的な側面から、コミュニケーション能力の1つ目の要素には「心理・生理的機能(Psychophysiological Mechanisms)」が備わっていることが考えられ、私達はこの機能を用いることでその場の状況を汲み取り、そして関与することができる。
この機能は身体に備わったものであり、コミュニケーションにおいてこの機能そのものを調整することは困難だろう。人間が「暑い」と感じることを調整することが出来ないし、上がり症の人間が「緊張しないように」と意識しても緊張してしまうのも体質や身体的な特徴が大きく影響するために調整出来ない。すなわち、この要素については人間が生まれつき備わった特徴という側面が強いために、訓練して鍛えることが不可能な部分となっている。もちろん、上がり症の人間が訓練を重ねることで、人前でのスピーチを上手に行えたり、体格が大きくコミュニケーションに不必要な威圧感を伴った人間が、物腰柔らかな言い方で紛らわす事例は考えられるが、これは後述する「方略機能」で補完しているだけであり、感覚そのものを調整しているわけではない。すなわち、この心理・生理的機能はコミュニケーション能力に大きな関わりを持つが、教育の対象そのものにはなりえないことがわかる。

  方略能力 -Strategic Competence―

 上記の心理・生理的機能がコンテクストを感じる個人の機能であったのに対し、2つ目の要素である方略能力(Strategic Competence)を簡単にまとめるならば「心理・生理的機能で感じ取ったコンテクストを判断し、それに合わせて言語使用の方法を決定する能力」である。
Bachman以前の社会言語学者の方略能力は、あくまで「言語によるコミュニケーションが困難に陥った際にそれを補完するために用いられる(非言語まで含めた)能力」とされていた。一方でBachmanはこの定義を拡張し、言語使用の上では欠かせない能力と考えた。
Bachmanの唱えるこの方略能力は、1.アセスメント要素―Assessment component- 2.計画的要素―Planning component― 3.実行要素―Execution component― の3つの要素で構成される。以下では、この3つの要素を確認する。

1.       アセスメント要素
我々は言語使用を行う前に、これから行われる言語使用に備え、目の前に存在する状況を判断している。この判断する要素をアセスメント要素という。例えば、可愛い女の子が歩いている状況が、あるコミュニケーション能力の高い男性の心理・生理的機能によって感知されたとき、彼が持つ方略能力中のアセスメント要素が働き「あの女の子に声をかけるべきかどうか」を判断する。仮に、その女の子が非常に急いでいるように映れば彼はコミュニケーションを図るには困難であると判断し、話しかけることを諦めるだろうし、逆に仲良くなれそうな隙を見つけることができればコミュニケーションを図れそうだと判断するだろう。このように、我々はアセスメント要素を用いることで、知覚されたコンテクストに対し何らかの評価を下す。

2.       計画的要素
我々は目の前に知覚されたコンテクストに対し、アセスメント要素を用いて何らかの評価が行った後に、どのような形でコミュニケーションを図るかを考えるだろう。このように、話者がコミュニケーションの方法を考えることが、方略能力の中の計画的要素となる。前述の例に当てはめるならば、コミュニケーション能力の高い男の子が目の前の女の子に対してどのようにすれば仲良くなれるのかという手順を思考する段階が、この計画的要素に当てはまる。彼はストレートに話しかける手順を計画するかもしれないし、過去にどこかで出会った知り合いの振りをするという計画を立てることも考えられる。また、アセスメント要素にて「女の子は困っていて助けを求めている」という評価を行っていれば、何か助けを提案する形で話しかけるという計画を立てるかもしれない。このように、我々はアセスメント要素での評価に対し、計画的要素を用いることで、目標に対してどのような方法をとることが最善なのかを思考するのである。

3.       実行要素
 計画的要素によって計画されたコミュニケーション方略を実行に移すのが、この実行要素となる。我々の身の回りでは「この計画に従ってコミュニケーションを図ろう、と思っていたけど、実際にやってみると上手に話しかけられない」という事例は多々あることから、計画要素と実行要素は区別して考えることが自然のように思われる。上記の例の続きで考えるならば、男の子が立てた「知り合いの振りをして話しかける」という計画を実行に移すことが当てはまる。我々は計画的要素での計画をもとに、実行要素を用いることで、実際にコミュニケーションを実行に移すのである。

以上では、方略能力に含まれる3つの要素を紹介した。ここで留意して置かなければならないことは、コミュニケーションはこれらの3つの要素アセスメント要素・計画的要素・実行要素1周するだけでは終わらないことである。実際のコミュニケーションを想定すると、「思っていたようにいかない」ということは多々起こる。この際に、我々は常に別の形でのアプローチを模索し実行に移すだろう。このように、私達は実行要素でコミュニケーションを行っている際に、目の前で行われているコンテクストに対し、再度アセスメント要素を用いて再度評価を行い、そして計画的要素に従って再度新たな計画を立て修正を行いながら、新たな形で実行していくのである。これらの要素は1回で終わるのではなく、絶えず循環することでコミュニケーションを築き上げているのである。

 心理・生理的機能とは違い、方略能力は教育・訓練によってある程度強化することができるだろう。しかし、この方略的能力はコミュニケーションに限った能力ではなく、目の前の状況に対する対処全般と一致する部分があり、いわば生活上広い意味の知性という特色を持つ。(なおBachman(1990)では、方略能力は知性という特色はあるが、完全に知性と一致知るものではないと述べている。)

  一般的知識 -Knowledge Structures

コミュニケーションを行う際に、私達は自身が持つ知識全般に従いやりとりする内容を決定している。コミュニケーションにおける3つ目の要素はこの一般的知識(Knowledge Structures)である。引き続き、上記の例で当てはめて考えよう。ある男の子が女の子に声をかけようとしている。上記では言った通り、男の子は心理・生理的機能によって状況を感じ取り、方略的能力でコミュニケーションの方法を考えるだろう。しかし、彼の方略は常に一般的知識によってある程度影響を受けているのである。例えば、彼が「最近話題のアーティストの話を中心に彼のウンチクを披露する中で話を仲良くなる」という方略を考えるかもしれない。方略の決定は、彼の一般的な知識に影響していることが伺える。このことから、我々のコミュニケーションにはそのコミュニケーションに関する内容という知識全般が大きく関わってくることがわかる。
 一般的に繰り広げられる英語教育では指導要領の上で「コミュニケーション能力の育成」を掲げているものの、コミュニケーションを行う上での話すべき内容が配慮されないことが多い。しかしながら、学習者がコミュニケーションをするにあたって話す内容という知識を持っていなければ、円滑なコミュニケーションは行うことが出来ないだろう。一般的知識が乏しければ、彼の選択しうる方略能力は大きく制限され得ないからである。コミュニケーションは一般的知識がなければ形式上のやりとりのみに陥ることを念頭に置かなければならない。

 言語能力 ―Language Competence―

 コミュニケーション能力を構成する4つ目の要素が言語能力である。上記の3つの要素は言語そのものとは関連のないものだったが、この4つ目の要素は直接言語に関わってくる要素となる。以下の図では、この言語能力の下位区分を図示する。留意して置かなければならないのは、これらの項目が完全に独立したものではなく、それぞれにある程度重複する部分が存在しうることである。



 言語能力は下位区分である組織的能力と語用論的能力に分けられる。組織的能力は我々が文法的に正しい構造を統制したり、それを文脈に組み込む能力である。一方で、語用論的能力は話者の発言がそのコンテクストに容認されるように結びつける能力である。
 組織的能力はさらに下位区分である文法能力とテクスト的能力に区分される。組織的能力を構成する1つ目の下位区分である文法能力には語彙・統語・音韻論・形態論といった比較的独立した諸要素が含まれる。我々はこの文法能力を用いることで、言語上の規則に受け入られる発話を発信・受容することができる。組織的能力を構成する2つ目の下位区分であるテクスト的能力には、テクスト同士をつなぎ談話を構成するための結束性や、発話の形式をより効果的に構成するための修辞的構造が含まれる。
 また語用論的特性はさらに下位区分である発話内能力と社会言語的能力に分けられる。語用論的能力を構成する1つ目の下位区分である発話内能力はスピーチアクトといった言語上現れないメッセージを汲み取るための能力である。私達はこの能力を用いることで、字義上に真意が現れない皮肉を言ったり、言葉が少なくどうとでも取れるような看板の広告に何らかの意味を見出すことができる。語用論的能力を構成する2つ目の下位区分である社会言語的能力には、「方言や変種に対する感受性」・「言語使用域に対する感受性」・「自然さに関する感受性」・「文化的指示とスピーチの形態を解釈する能力」が含まれる。私達はこの能力を用いることで、方言と標準語を使い分けたり、書式上では口頭表現を用いることを避けたり、構造上には問題のない留学生の言葉にある種の違和感を覚えたり、コンテクスト上に突如現れた比喩を理解できる。
 以上で示した諸要素が統合され、言語知識を構成しているのだが、しばしば我々の周りの英語教育では組織的能力、さらにその中の文法能力にばかり焦点を置いてしまっているように思われる。しかしながら、私達の言語知識、ひいてはコミュニケーション能力は文法能力だけで行われるものではないことは前述の通りである。確かに母語のコミュニケーション能力の要素を転用できる可能性もあるが、あくまで英語という言語を通じてコミュニケーションを図るように教育するのであれば、文法能力以外の諸要素まで教育しなければなないのではないだろうか。

  コミュニケーション能力の評価の在り方とは?

以上で述べてきた通り、コミュニケーション能力とは非常に様々な諸要素が絡み合い、相互作用しながら構成している。それ故に、単純な言語知識の中の文法能力だけでは、コミュニケーション能力全体を扱うことは出来ないのである。
上記のうち、評価しやすいのは言語知識(特に文法的能力)である。これらはテストの出題方法を考えれば、ある程度問うことができるのだろう。しかしながら、方略能力に関しては、単独で測定することは極めて困難だろう。そのため、従来のペーパー試験によって、目標で掲げているコミュニケーション能力を測定するのは不可能に近い。
近年、TOEICTOEFL、センター試験といった限定された能力が世間での議論の中心として考えられることが多い一方で、グローバル化や社会からの需要によりコミュニケーション能力を重視する声も多く上がっている。上記のコミュニケーション能力の構成を考えるならば、TOEFLTOEICの点が保証しているのは極めて限定的な部分である事がわかり、これらを同一視できないことは明らかだろう。今一度、コミュニケーション能力とは何であるのか、そして広く用いられているテストの得点が指し示すものは何なのかを再考する必要があるだろう。

参考文献

Lyle F. Bachman 1990. Fundamental Considerations in Language Testing