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2021年4月18日日曜日

無自覚な「格差の壁」 ー幅広い生徒と接する際に必要な自己覚知ー


今日は「世の中の『成功者』と『そうでない人』の間に存在する無意識の壁」についてのお話(図1)。私は哲学に対する知識は皆無なのですが、どっかの偉い人が「我々は『無意識』に支配されている」と言ったとか言わなかったとか。


無意識に意識を向けなければ、気づかないうちに「差別的な」もしくは「分断的な」価値観で世の中を捉えてしまいそうなので、まとめてみました。







成功者は無意識に見下している?


東洋経済オンライン 「サンデル教授が語る『大卒による無意識の差別』」では、以下のように述べられていました。


能力至上主義の考えの裏には、「成功をしていない、社会的に認められない人は、努力してこなかった責任を負っている」ということになる




上記の図2のように、社会的な成功者は、他者に対して、その差を「努力量」と考える傾向にあるそうです。この(限定的な)成功者の理屈の上では、「成功は誰のもとにも平等にあり、それを手にできないものは怠慢である」となり、成功を手にできなかった者は怠惰のレッテルが貼られることになります。


もちろん、この理論を社会生活で露骨に表現すると不要な敵を増やすので、顕在化する場面は少ないのかもしれないですが、言われてみれば、そのような考え方は存在しているように思えます。私自身、教員として生徒に対して「誰にでも平等にチャンスがあり、その可能性を狭めているのは自身の決定によるものだ。努力により可能性を広げない者に明るい未来はない!」的なことを言っている覚えがあります、ここまで露骨かどうかはさておき。



このような考え方の落とし穴を挙げてみます。


「努力をしないこと」=「悪」という前提条件が刷り込まれている

「成功」は、努力だけでなく環境や運にも左右される

そもそも「成功」は単一の尺度で測るべきでない


まず「成功者は例外なく実力がある」という前提が怪しい。「たまたま恵まれた環境に身を置き、たまたま成功体験を積み重ねることができ、そこにたまたま好機が舞い込み、一時的に成功している、と錯覚しているだけ」なのかもしれません。よって、「成功者」の土台にあるものが「努力」だけと考えるのは、極めて危険な思想になります。社会的な「失敗」のすべてを、「本人の努力不足」とみなし、「好機を自ら逃した破滅願望者」だらけの世の中に生きることになります。


あるいは、自身の「成功」の尺度で「社会的な地位」を規定してしまうことは、非常に偏った解釈で世の中を捉える恐れがあります。昨今の「差別」に対して厳しい意見がぶつけられる社会において、自身の「成功」という尺度だけで生きていくと、無意識のうちに様々な差別的な価値判断を行ってしまうことになりかねません。




「言い訳」は弱者の心の支え?


一方で、哲学者ニーチェは「ルサンチマン」という考え方を説明しています。(私の解釈で言えば)要は、「弱者は強者に対して恨みを覚えている」といったものなのですが、世間で「サクセスストーリー」や「弱者救済の英雄伝」が受け入れられるのも、広くはこの感情が根底にあるからだと考えることができます。


この「ルサンチマン」的な発想を根底に考えると、「社会的な成功者は、いずれ失敗するべきであり、本当の幸福は自身の方に存在していてほしい!」という思想から、成功者に対しての嫌悪感や不平等さの正当化を行います(図3)。




「成功者は本当は不幸である」という願望めいた無意識の価値観が拡張していくと、分断が深まる恐れがあります。


さらに、「弱者のほうが幸せである」という思想を延長していけば、人間は自ら、様々な可能性を破棄していくことに繋がり、無限地獄編に突入していきます。




「無自覚」を「自覚」すべきである


今回の話を通して、「成功者側の思想」にも「弱者の思想」にもヤバさを感じます。ただ、ヤバさを感じられたらそれでいいのかもしれません。大切なのは、「無自覚でどちらかの思想にどっぷり浸かること」=「ヤバい」と自覚することなのかもしれません。正直、私自身、前者の考え方に少し偏っている節があるので文量にもかなりの差が出ました(笑)




まとめと本音


(かなり私の解釈が入っていますが)哲学者のデューイの考え方に沿って言えば、人間の決断・決定は環境的な要因が大きく、直接的に他人を長期間支配することはそもそも教育の原理に相容れない考え方であることから、教育の本質は環境整備である。生徒が進路実現できなかった時、教師として考えるべきは「本人の自覚・勤勉さ」に由来すると結論づけるのではなく、取り巻く環境を整えられなかった周囲の大人たちの責任と捉える必要があるのかもしれません(もちろん、ここまで来ると個人の領域を超えています)。教育現場では、「怠惰」と一蹴するのではなく、とにかく環境を整備することに注力すべきなのかもしれません。


また、(こちらにもかなり私の解釈が入っていますが)マルクスの唯物史観的な見方だと、人間の行動様式は周囲の物質的環境に決定されているため、取り巻く物質的な要素(スマホ・教師・教室・参考書)等が影響した結果、生徒は行動を決定させられているのであって、その物質的な環境さえうまく支配することができれば、生徒はある程度何にでも変容しうるのかもしれません。


教員をやっていると「最終的には本人の努力次第でしょう!」と割り切って何とか自分を許そうとした結果、図2のような思想に陥ってしまいがちな気がします。逆に、「あの生徒を合格させたのは自分のおかげだ!」と驕りたくなるケースもありますが、これらも含め、社会の「成功」というものには、環境や運といった要素が強く影響することを自覚する必要があるのかもしれません。

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