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2021年1月17日日曜日

【図解】最強の学習習慣形成方法?!


 

・「試験勉強の勉強時間で学年1位のクラスを目指そう!」

・「高校生は『学年』+1時間の勉強時間を!」

・「学習時間を調査します!」


 教師をやっていると必ず耳にするフレーズ。そして、直面する「勉強しない子は本当に勉強しない」という課題。(正直なのはいいんだけどね!と開き直るしかありませんよね)

 さて、「家庭学習の習慣を作る」という目標を達成するために教師ができることは何なのでしょうか?今回は、習慣形成コンサルタント吉井雅之著「習慣が10割」を基に、生徒への促しを考えてみます。

 (本記事では、吉井 雅之著「習慣が10割」と、サラタメさん『【17分で解説】習慣が10割|習慣化できないのは、〇〇を知らないから』を基に、生徒の学習習慣を形成するテクニックの考察です。)




前提


脳は「正しさ」では動かない



 定期考査後、課題を提出を促されてから行い、それでいて成績の良くない生徒を見ていて、私は「あえて考査後にやるメリットなんてほとんどないだろうに、どうしてテスト対策を兼ねて、考査前にやらないんだろう。」と毎回不思議に思っていました。さらに、提出しない生徒と「その行動ってどうなの?」と尋ねても「自分でも頭悪いなと思うんですよね」と答える。

 

 詳しい話は本書を読んでほしいのですが、我々の脳は、意志よりも、「不快を回避する」という判断を優先的に行うそう。脳はストレスから身を守るための行動を優先する、と聞くとまぁ納得がいきます。


 「あえて考査後に課題を行う」という行動の背景を考えると ①「『課題を行う』という不快さの回避 をした上で、②『「提出せずに怒られる」という不快さの回避」 という合理性があるのでしょう。たとえそれが、合理性に欠けたものであっても。


 このことからわかるのは、「メリットを並べた正しさ」より「サボりたい!」を優先してしまうというのは、脳の性質上、一定の整合性が取れた行動だということです。

 

 さて、彼が家庭学習の習慣を身につけるために、私には何ができるのでしょうか。習慣形成のコツは大きく4つあるそうです。

 



習慣形成のテクニック①

・欲望の明確化


 脳は本能的に「不快」を回避します。そのため「学習=快」という前提を作らなければいけません。そのため、習慣形成のテクニックの1つ目は「学習によって得られるメリットを言語化する」ことです。

 

 教員が目標を書かせる場合、「今学期の目標点を書こう」や「何ができるようになるかを書こう」という部分でとどまってしまいがちです。しかし、これらを書かせたところで、そこには「生徒の気持ち」がありません。肝心なのは、欲望と結びつけハッキリと意識させることです。


 ・「考査でいい点数を取る」という結果がどういうメリットを生むのか

 ・「英語ができるようになると、どういった点で良いのか」


 「金になる!」「志望校に受かる!」「どうせやらないといけない受験勉強を前倒しで行い、後を楽にする!」「出川イングリッシュは面白いんだけど、本当の解答をわかった上で見るからもっと面白くなる!」「単純に追試受けなくて済む!」など、品はないかもしれませんが、「心と結びつける」という点ではかなり有効なように思います。


 「『教師として』崇高な存在でありたい」と考えてしまいがちですが、実際に有効なのは「『ペテン師として』でも実利的な存在であるべき」なのかもしれません。もちろん、ここまで明確にしなくても動ける生徒もいますが、その“優等生”と“怠慢な生徒”の差は、現段階で「メリットが見えている」かどうかだけなのかもしれません。(改めて思えば、勤勉で英語が得意な生徒がよく勉強するのは、決して崇高であるわけではなく、単に「更に自己有用感を感じたい」という欲望で動いている可能性もあると思うと、学習の動機に貴賤はないのかもしれません。)




習慣形成のテクニック②

・一番小さく始める



 習慣形成のテクニックの2つ目は、「ハードルをとにかく下げたルールを決める」ということです。

 決めた習慣を実行できない場合、決めた行動規範を守れない自身の怠惰さに不快さ・無力感を覚えます。そして、再開しても守れないかもしれない恐怖に襲われ、習慣の定着し損ねます。そもそも、やる気があるときは「やめろ」と言われても勝手に実行します。ここでの目的はあくまでも「やる気の有無に関わらず、一定の習慣を形成すること」です。その先にある「到達するかしないか」はひとまず別問題ですし、習慣が形成した後に改善すればいい。とにかくまずは、習慣形成のための簡単なルールを立てましょう。


 実際、「毎日、問題集を3ページする!」といった目標をいきなり達成できているのを見た覚えがありません。兎にも角にも、低すぎる行動規範を提示することから始めればよいのではないでしょうか。「1日1回、勉強机に座る!」「日記を1行以上書く」といった低くてもいいのでとにかく行動規範を思い描くのがポイントかと思います。

 ここでの「低すぎる習慣のルール」は「低い目標(単語テストで○点取るなど)」に非ず「簡単な行動規範(単語帳を開いてみる)」であるのもポイントだと思います。




習慣形成のテクニック③・④

・時間と場所を固定する

・人を巻き込む



 習慣形成のテクニックの3つ目は「時間と場所の固定」、4つ目は「人を巻き込む」ことです。

 これらは実感があるので、多くはまとめません。





最強の学習習慣形成方法?!


 以上を踏まえて、実行可能かどうかを度外視し、最強の学習習慣形成の方法を提案します。それは以下のルールです。実践できたら面白いだろうなぁ。



毎日○時から○分間、クラスで勉強する様子をビデオ中継する

【補足ルール】

①開始時間だけは守る(すぐに抜けてOK)

②中継はミュート(目的は学習習慣)


これができると、メキメキ勉強してしまいそうな気がします。


[メリット]

・中継に使用するため、スマホを見れない

・強制的に時間と場所を固定


[デメリット]

・通話でグダグダになる

・参加者が減って孤立感が生まれる

・通信費・環境的な側面

・管理

・何していいかがピンとこない生徒は参加できない


2021年1月11日月曜日

理想の働き方へ近づける「DEAL」の4ステップ



 「全てを全力で取り組む」をモットーに頑張って教師をしてきましたが、当時を振り返ると、期待したほどの結果が得られず、しんどいばかり。今回は、理想の働き方へ近づけるDEALの4ステップに照らし合わせて、今後の抱負を整理しようと思います。なお、今回の話は『【20分で解説】週4時間だけ働く。| ゆとり世代の理想像「ニューリッチ」になるための4ステップ』https://www.youtube.com/watch?v=ybbnTNnLkHw&t=31sを参考にしています。20分程度のわかりやすい動画なので、よければご覧になってください。



DEALの4ステップとは?

DEALの4ステップとは、ティモシー・フェリス著『「週4時間」だけ働く。』で紹介されている考え方です。


本を超ざっくりまとめると
 「オールドリッチ(とにかく頑張って使い切れないほど稼ぐ)ではなく、ニューリッチ(やらないことを決めて、精神的に豊かに暮らす)を目指す」


「ニューリッチ」とまではいかなくても、精神的な豊かさを目指すために、DEALの4ステップの考え方は身につけておきたいと思いました。4つのステップについて考えてみます。


D:Definition(定義)「どうなりたいのか」

まずは、自身の目指すべき姿をしっかりと思い描きましょう。その際に留意したいのは「汎用的なオールラウンダー」を思い描かないこと。オールラウンダーも魅力的とは思うのですが、雑多な有象無象で精神をすり減らしてしまいます。ここでの目指すべき姿は「自分自身のライフスタイルに照らし合わせた上での理想」なので、全ての業務をマルチにこなせる超人ではなく、具体的な得意分野、特に自分が能力を発揮したい分野において活躍していて、なおかつ働いていて気持ちがいい状態の「理想」を思い描きましょう。

現在の私の場合は「成績上位者が自主的に学習に取り組み、進路実現を達成するための仕組みを整備する」です。ここでの「理想の定義」は、一生スパンのものではなく、あくまで1年や半年スパンのものであるほうがよりイメージしやすいのでいいと思います。理由は後述。



E:Elimination(排除)「何を捨てられるか」

教育の業種において、様々な場面で直面するのが「必須じゃないけど、奨励されていること」。例えば、丁寧な添削、自主的な補習、部活指導、HR日誌などなど。職場には様々な人がいて、丁寧に行っている人もいれば、一切やらない人もいる、正直なところ任意に任されている業務が山のようにあります。これらをまずは排除していきましょう。

仕事を排除する際に気をつけなければならないのは、「理想」と照らし合わせて考えること。確かに、「何でもできるオールラウンダー」ならば、すべての業務を丁寧にこなすのでしょうが、それをしていると本当の豊かさからかけ離れてしまいます。

「いや、さすがにやめられないでしょ」と思ってしまいがちですが、ここで留意したいのは「ひとまず、やめてみる」という勇気かと思います。やめてみてわかるのは、「この要素だけは残さないといけないのか」というエッセンス。逆に、問題が生じそうな予兆が起きれば、その際に、エッセンスを残した代案で対応しましょう。ここでの「排除」が指すのは、極端な「廃止」ではなく、「一旦停止」くらいだと捉えましょう。ひとまず、Dで思い描いた「理想」に近づけたら、その後「新たな理想」が浮かんでくると思いますが、その際に回収すれば良い。ひとまず、全てのことに満遍なく注力するのではなく、手っ取り早く「理想」を実現してしまい、余力を残すことが豊かさに近づくカギかと思います。

私の場合は、Dの手順で「自主的な課題の整備」を掲げましたので、それ以外の業務については最低限でこなしています。もちろん、他に様々な業務も抱えていますが、それらについては「最低限運営できる程度」の質にとどめ、こだわらないことを意識しています。確かに、生徒の発表を見るたびに、「おっと、これは指導してあげないと、、、」という強迫観念に駆られるのですが、今は後回し。ましてや、「理想」とはかけ離れているにもかかわらず、周りの先生から「あの仕事はあいつが適任!」と思われてしまっては、いつまでたっても理想に近づけることができません。心を鬼にして、断捨離を行いましょう。あくまでも「一時的に業務を引き受けている状態」を意識することが大事かと思われます。



A:Automation(自動化)「自動化する」

断舎離した後、「自分の理想に向けて取り組みたいこと」が顕在化したら、次はその「自動化」を考えることです。本の中では、投資や外注といった方法が紹介してありましたが、教育ではこれらは難しいですが、「自動化」はやってやれないことはないように思えます。日々、自転車操業状態であれば、「自動化」まで想定して準備することはできませんが、タスクに追われてばかりいてはなかなか理想には近づけません。余裕のある状態を作り、「次回に使い回せる財産」をたくさん作っていきます。

重要なのは、「全力で取り組む」のではなく、「自動化する方法を考える」ということです。確かに「ただ全力で取り組む」のであれば、頑張っただけ成果を残すことは可能かもしれませんが、再現性を考えた際、毎回「全力」を求められると精神的にしんどさが生じます。さらに言えば、あくまでの「個人の努力」で運営を行うと、後任の人がしんどい思いをするにとどまらず、その後任を見た際に落胆してしまうのは自分自身です。「教員」という、毎年人事配置や生徒が変化する業界において、「業務を自動化する仕組みを考える努力」をしていくべきなのではないかと思います。また、自動化することで、運営そのものの負荷を減らし、整った環境の中で生徒と向かい合うことがさらに効率的になると考えられます。

私の「自主的な課題の整備」という理想の場合は、「対面での放課後補習を行う」のではなく、「文法の説明と練習問題のパッケージを作成し、オンラインで受け取る仕組みを作る」という点に着地しました。更に、Youtubeの解説動画やClassiといった、外部の材料で切り貼りし、とにかく少ない負担かつ、ある程度のマニュアルさえあれば、誰でも作成可能な範囲での整備を意識しています。確かに、毎年生徒の学力層は同じではないですし、私が違う学校に転勤した際にはそっくりそのまま運用できないかもしれませんが、大枠の自動化が整っていれば、コンテンツを微調整すればよいだけであり、毎年0から始める必要がない分、楽になると信じています。「自動化」がキーワードかと思います。



 L:Liberation(解放)「新たな刺激を受ける」

理想に向けて断捨離し、そして自動化に取り組む。とにかく、時間と精神的な余裕を確保した後に行うのが、「新たな刺激を獲得し続ける」ことだと思います。バリバリ運営を回すことも可能だと思いますが、前任校でそれらを全力で運営していて思うのは、「新しいことに挑戦できていなかった」という反省です。「全力で取り組む」のは素晴らしいことだと思うのですが、それは短期間的な発想であり、長規模的視点に立つと、「分析・改善に割く余裕がない」ということでした。決められた業務を、決められた通りにこなすだけで疲弊しきっていた当時、「これ以上よくする」という発想が生まれるはずもなく。さらに、多少の工夫ならば盛り込むことはできるものの、すでに煮詰まってしまっている場合が多く、斬新な発想や改革は異なる分野や領域から着想を得なければイノベーションは生まれないような気がします。努力だけではなく、時に趣味や読書といった刺激により、自分のカラーを加えるためにも、自分を築くための自由な時間が必要なように思われます。また、この「L(解放)」の要素があるからこそ、次の「D(理想)」が生まれるのではないでしょうか。


まとめ

 本書では、「週4時間だけ働く」というテーマでしたが、実際にこの業界では不可能です、というか勤務時間は決められています(むしろ無視して働きすぎてます)。しかし、我武者羅に働いた日の夜、ふと我に返り「本当にやらないと、生徒はダメになっていたのだろうか?」と虚しくなることがあり、改めて「異様な働き方」を実感しています。(引き継ぎが一切なく、後任のことを考えていない仕事や、個に依存しすぎている仕事など、愚痴を言いだしたらきりがありませんし、実際私もやってしまっていると思います(笑))なので、今年度は「自動化」という要素を念頭に、いろいろなことに取り組んでみようと思います。(自動化しまくった結果、育休とか取れるといいなぁ。)

2021年1月3日日曜日

【LHRネタ帳】本当に弱者は美しいのか?ニーチェ「ルサンチマン」を通じて

 哲学者ニーチェは「ルサンチマン」という概念を提唱した。「ルサンチマン」とは「強者に対して、弱者が仕返しを欲するモヤモヤ」。

 人間は、己の存在意義・拠り所を求めるべく、自身より優れている人に対して何かしら理由をつけ、自身のほうが勝っている理由を探す。そして、時にその解釈は曲解を生み、誤った解釈を引き起こす。

 例えば、「人は外見ではない」という言葉は、「外面の美しさの否定」でとどまらず、「外見が優れた人物は、内面では優れていない」という曲解を生むことは少なくない。ルックスの良い人を見ると「内面は怪しい」と思いかねないし、逆にルックスの良くない人を見ると「性格が良さそう」と思ってしまうのが世の常である。もちろん、「イケメンっぽいクズ」や「愛すべき醜男」も浮かぶ。だが一方で、世の中には「性格すら良いイケメン」や「マジでどうしようもない醜男」も割といる。「金持ちは性格が悪い」とか「アホな方が世の中楽しい」といった言葉もよく聞くが、「性格のいい金持ち」や「人生を満喫している賢者」だって割といるはずだ。

 強者がすべての点において勝っていたのであれば、弱者はツラい。「凄いあいつも、どこかで劣っていてほしい!」と願い、それが具現化されたドラマや小説が生まれ、それらを通して弱者は心を潤す。しかし、それはフィクションの中の一例でしかなく、世界の真理ではない。実際、「凄いあいつ」は多くの点で、自分より凄い。


 さて、「ルサンチマン」というフィルターを通さない世界を考える。「弱者は負けていて、強者は優れている」という言わば「弱肉強食」だけの世界。「何だか救われないなぁ」と思うが、都合の良いフィクションのような大逆転劇は珍しい。珍しい故に話題にもあがるが、蓋を開ければ、結局のところ、泥臭い努力だったりする。要は、「ルサンチマン」は虚構に過ぎず、世間は割とシビアにできている。

 「あっ、これは『ルサンチマンだ!』」と気付き、世の中を正しく捉え、日々コツコツ自己研鑽を行うしかないのかよと、高校時代、国語の先生の机に貼ってあった『凡人よ、時を惜しめ』(手書き)を思い出す。TSUTAYAで借りた『ドラゴン桜2』と、最近お気に入りのYOUTUBEチャンネル「ぴよぴーよ速報」を通じて、ぼんやり思いました。

2020年12月29日火曜日

振り返り(2020)

 激動だった今年度の振り返りをツラツラと。備忘録です。


【プライベート】

 おめでたいことが立て続けに起こりました。私生活の変化が目まぐるしい1年でした。

2月 プロポーズ
3月 両家挨拶
5月 同棲開始・両家顔合わせの食事会
7月 式場見学・決定
11月 挙式
12月 妊娠

 「人生において前例のないことに加え、コロナへの懸念でどう動けばいいのかわからない!」と焦ることも多かったです。が、振り返れば2つの教訓で整理できそうです。

① 漠然とした不安は【良いケース】と【悪いケース】の2パターンで対処

 正直、コロナでの自粛生活を続けると「何かをすること=悪」のような感覚を覚えてしまいますが、進めなければならないことも多く、リスクを承知の上で行動することも必要だと感じました。特に、挙式の準備については、「動けるうちに動いておく」ことで、あとが非常に楽になることを実感しました。「ぶっちゃけ、延期になっても仕方がないけど、できたら今のうちに滑り込ませる!」という感覚でしたが、何とか無事予定通り進めることができて良かったと思います。「よくわからない」状況が一番ストレスだったので、「うまく行けばAプラン、だめならBプラン、それ以外にベストはないね!」と割り切ることが必要だったのではないかと思います。(まだまだ人生これからなのでしょうが。)

② 時間の節約になる出資は早めにしておく

 大きい冷蔵庫と大きい洗濯機は、想像以上に心にゆとりを与えます。値段以上の価値があるので、これは出資するべきだと強く実感しました。


【仕事】

 4月で4年間勤務した初任校を移動しました。3月には3年間持ち上がったクラスを卒業させ、新天地で新たに目標を定めて奮闘しているところです。気づきを何点かまとめます。

① 「1週目のしんどさ」

 初任校での仕事は、初めての連続で、すべてのことに全力で取り組んできました。また、周りからも多くの仕事を振られるようになり、「信用の表れ」と受け止めてきました。と同時に、常に「何でこんなしんどいのに、まだ仕事を振ってくるの?ブラックなの?!」と憤ることもありましたし、ストレスで蕁麻疹が収まらなくなり、血尿に悩むこともありました。ただ、今になって振り返れば、そこまで肩の力を張らなくても、とどのつまり「押さえることろは数点しかなかった」ということを思います。慣れた人からすれば、「要はアレとアレをするだけ」なのですが、初めての人にとっては暗中模索の四苦八苦。ただし、2周目からは大したことではないことがわかります。今でも「仕事量は適当だった」とは思えませんが(笑)、確かに「やってやれないことはない量にすぎなかった」と思います。

 とはいえ、当時は死ぬほどしんどかったので、中堅を迎える前に備忘録を残すのであれば、山本五十六の言葉「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」を肝に刻むことです。中堅がいない前任校では、若手に仕事を任すにしても、ヒント無しで丸投げでしたが、正直ツラいものがありましたので、この言葉を元に行動すべきだと思います。

 さらに、自身を振り返っても思うのですが、生徒会活動や文化祭の行事の運営を振り返った際に、私は手慣れているので当たり前のように生徒に「いい経験になるから!」と丸投げし、「あれ?思ったほど進んでいない、、、?」といった場面を反省しています。人に教えることの責任とテクニックを改めて実感しました。

 『やってみせ』        : 実演
 『言って聞かせて』  : 説明
 『させてみせ』        : 練習
 『ほめてやらねば』  : 評価

② 「歩き始めるまでを丁寧に」

 初任校での教科指導を振り返ると、「丁寧なプリントによる本文解説!」「フィードバックには力を入れて!」「補習用のテキストも用意!」「各大学の過去問分析→傾向に合わせた問題提供!」と全てに全身全霊を注ぎ込んだ挙げ句、実際の授業では「これを持って帰れば家でもできるから、雑談しちゃおう!」という本末転倒な授業が多かったように感じます(笑)

 圧倒的に「授業中の時間」<<<「授業外の時間」です。また、「理解」以上に「定着」に時間を割かないと実力は伸びず、解説を聞くだけの授業はどれだけ極めても成果が伸び悩むことを踏まえると、自主的な学習が非常に重要なのではないか、という部分で今は落ち着いています。

 一方で、「生徒が自主的な学習を行えるようになる」のは実は一筋縄ではいかないと感じています。現在の赴任先では、中高連携で地元の中学校に週5時間ほど出張授業(補助)をさせてもらっているのですが、中学生の学習の様子を見ていると、「目的を理解して学習に取り組んでいる子(=何かを身につけているために学習する子)」と「タスクを消化するために作業を行う子(=言われたことを終わらせるだけの子)」の二極化を痛感する日々です。前者の生徒はメキメキと力をつけるのに対し、後者の生徒はどれだけ課題をこなしても得られるものが少なく、真面目・不真面目を問わず、結果が出ず、達成感が得られず、学習が継続しないという現状を目の当たりにしてきました。しかも、少々の声掛けでは集団の中での変化はあまり期待できないのかも、と絶望しかけることもありました。

 現在の所属校では、後者の「タスクの消化を目的に作業を行う生徒」が多く、単純に課題を設定することにあまり多くの意味を見出すことができず、一つ二つ、工夫が必要なように感じでいます。自主的な学習が効果を発揮するために求められる ①取り掛かりのハードルを下げる工夫 ②学習の目的を潜在化させる工夫 ③継続的させる工夫 など、様々なことを感じ、試行錯誤したので、機会があれば整理しようと思います。

 話は逸れましたが、3年生の後半になれば、生徒は血相を変えて学習に向き合うようになります。それは必要に迫られて行っているのもあるのですが、大半は「やっと学習の仕方がわかった」という部分の解消によるものも大きいと思います。歩き始めるハードルさえ突破すれば、あとはある程度勝手にやってくれるのだろう、出だしの指導こそが重要である、と今の所属校では強く感じています。

③ 「ICTへの見識を深めておこう」

 そのままです。現在の『教育にICTを活かせ』という風潮はおそらく、向こう10年くらいは逆行することはない気がします。特に、生徒が自身の端末を学校内に持ち込むハードルが下がってきており、私の所属校では今年度から全員必須となっており、それを活用しなければいけない義務感に駆られています。

 所属校の校長面談の際に言われた「①既存のものの置き換えと、②新たな制度の導入 の2つの側面について考えていこう」という言葉が印象的でした。「アクティブラーニング」の流れから、「協働的な学び」、そして「個別最適化された学び」と流行の言葉はシフトしていきますが、それぞれの長所や流行り廃れの原因を踏まえて、フットワークを軽く、美味しいところを囓って行きたいところですね。


 以上。飽きたのでこの辺で終わります。 

2017年3月5日日曜日

卒業式を終えて 2017

 先日、卒業式を終えました。今の学校に来て1年目の私との付き合いなんてのは、所詮1年という短い期間に過ぎないのですが、私の中では大きかったです。 正直なところ、一人一人との思い出を振り返ると日が暮れるので、思い出の中でも今後私が教員生活を続けていく上で忘れたくないことをザックリとまとめておきます。


・ 深みのある授業へ  

日々の授業を進める上で、もちろん「英語力を高めてあげたい」という思いは常に根底にあります。しかし、同時に「英語を必要のない生徒もいるのでは」という葛藤や、さらには「教師と生徒がお互いに形式的な お約束としての授業をこなしているだけなのでは」と思ってしまうこと、これらが全くないというと嘘になると思います。正直なところ、特に高校3年生を迎えると、短期的な進路を決定する上だと英語を必要のない生徒がクラスにいることはレアなケースとは言えないと思うし、そうは言ってもお互いに義務感を感じて最低限を消化している面もあったかもしれません。しかし、それは私の英語観、言ってしまえば教育観の浅さが起因するものに過ぎないように思えます。もちろん、生徒一人一人にはそれぞれの志望があり、それ故に英語の授業に対するニーズは決して一枚岩でないことは承知の上です。ある生徒は「推薦入試のために定期テストの成績が上がるような徹底的なテスト対策の授業」を求めているかもしれないし、「ひとまず卒業のために赤点だけを回避すれば良い」と考えている生徒もいるでしょう。一方で「受験で英語を使うので、しっかりと周辺の知識までしっかりと押さえたい」生徒や「ニーズの異なる生徒とのペア活動に対してストレスを感じるために個人で学習を進めたい生徒」もいるでしょう。そのような多様な生徒が混在する教室の中で、絶対的に正しい授業スタイルはないのだと思います。が、少なくとも「この授業を受けたら利益になる」と思えるような、幅広く、さらには奥深い面白さを提供しなければいけないのだろうと痛感しています。もちろん、それらが結果に繋がる必要があるということは言わずもがなですが。そのためには、私の教育観を更に深め、英語観も深めて行く必要があるのでしょう。今の私は幸いにも若く、生徒と年齢が近いこともあって、小手先の面白さで生徒がついてきてくれている部分が大きいと思います。ただし、この状態にあぐらを掻いていては、何よりも生徒に申し訳ない。日々、自己研鑽を続けていかないといけないと痛感させられました。生徒からの「ありがとう」という言葉は確かに嬉しかったのだけれど、私の内心では「もっと何かしてあげられたのでは」と思わざるを得ません。この気持ちを忘れることなく、深みのある授業を目指して頑張ります。

・ 部活動に関して  

正直なところ、今回送り出した3年生には「申し訳ない」という気持ちで一杯です。前顧問が転勤し、代わりに全くの専門知識も経験もない私が顧問になったことに関しては、誰かが何かをできたわけではない、言わば仕方がないことでした。ただ「そんなこちら側の事情は、生徒が被害を被る理由にはならないのではないか」、「せめて前顧問がいたときと比べてできる限り不自由さを感じさせない努力は必要なのではないか」という想いがあり、初めは強い義務感を常に感じていました。ですが、義務感ばかりだったのは初めのうちだけで、ボロボロに頑張る姿を見ている中で、「力になってあげたい」と心の底から思うようになるのにはそう時間はかからなかったように記憶しています。それ故に私に専門性も運動経験もないことは本当に悔やまれました。この未熟さは、例え私が全力で専門書を読み上げたところで、コートの外から眺めているに過ぎない以上、決してなくなることはないと思います。そういう点では、私が今の部活の顧問になっている以上、私は申し訳なさを感じ続けるのでしょうが、特に今回の3年生に関しては最後の最後に支えとなっていたものが急に無くなってしまった、不用意な不安感を覚えたのではないだろうか、と本当に申し訳なく思っています(もちろん、3年生だけに思っていることではないのですが)。おそらく私もそのうち、部活の顧問として慣れていき、いろいろなことを経験していく中で、自分の理想の形を持つようになると思います。その大きな原型を、卒業生に見せてもらったと思っています。なので、少し綺麗にまとめるならば、部活の卒業生に対して言わなければならないことは「ごめんなさい」なのだけれど、言いたいことは「ありがとう」なのだと思います。実際のところ、部活の卒業生との関わりは引退までの数ヶ月に過ぎなかったけれど、私が顧問として携わりたいと思ったのは、決して競技に対する情熱に目覚めた訳でもなければ、部活動の顧問としての実績をあげたいとかそんな打算的な理由ではなく、とにかくボロボロの彼女たちを応援したいという想いだけだったのだと思います。(ユニフォームを含め←)ボロボロな面は至る所で垣間みえていたことは否めないチームではあったけれど、時に賢く、時に狡く、常に強かったあのチームをきっと忘れはしないでしょう。


 最後に、今年卒業を迎えた3年生の皆様、ありがとうございました。

2017年1月3日火曜日

振り返り(2016)



 新年が始まって3日が経過してしまいましたが、簡単に昨年を振り返り、今年に生かしていこうと思います。


・   全日制の高校に変わる

 昨年の春まで定時制高校で勤務しておりました。確かに、定時制の高校と全日制の高校の様子は大きく違います。しかし、私の目の前にある光景に限らせてもらえば、その大きな違いは生徒の進路です。
 定時制の高校が持つ大きな役割は「社会に出る準備」だったように思えます。定時制高校は彼らの最終学歴にあたる教育現場です。そこでは、いわゆる「仕上げ」が求められます。就職先もほとんど決定していますから、正直なところ、彼らが多少英語を使えるようになったとしても彼らの将来は変わらないのが重い事実でした(今思えば、私の思い込みだったのかもしれません)。その時に、私が見つけた使命はとにかく「自信をつけて社会に出てもらいたい」ということでした。「やればできる」という感覚をもって胸を張って社会に出てこいというメッセージが授業で伝わればいいなぁ、その一心で授業を準備していました。
 一方、今いる全日制の学校では、生徒たちは進学を前提に入学しています。ステップアップをさせ、さらに次の教育へ引き渡す役割を担います。就職を前提とした定時制では「何とかなるんじゃないかな」と思わせる教育が中心でしたが、進学を前提とした現在では「もっとやれるんじゃないかな」「やってみようかな」と思わせる教育に切り替える必要があるようです。現在の私の理想像は、模試の結果を次のモチベーションに変えてもらうという正のループです。言い換えると「何か当たり前のようにやってたことが積み重なって、結果につながってきたし、もう少しやったらどうなるんだろう、やってみよう」という流れが理想形です。
 そのためには、現在大きく分けて3つの課題を抱えています。
Ø  学習への意義付け (何故進学をすべきなのか)
Ø  学習方略への理解 (どのような学習が効果的なのか)
Ø  学習への動機付け (とりあえずやりたくなる第一歩)
 結局、この辺をしっかりと紐解かなければ、「どういう授業が効果的なのか」という方法論に繋げたところで効果が上がらないように思えます。
 目の前の生徒を見ていると「進学するのが当たり前」のような雰囲気はありつつも「勉強するのが当たり前」という雰囲気に欠ける不思議な感覚を覚えます。どうやら、学習習慣が醸成できていないようです。この学習習慣の欠如に起因するのは上記で挙げた「学習意義の欠如(何でやらないといけないのかよくわかっていない)」「学習方略に関する理解不足(どうすればいいのかわからない)」「学習への動機付け(一歩目が出ない)」に収束しそうです。現状で、何をどうすればこの辺りが伝わるのか具体的な像が持てていないので、しばらく考えてみることとします。


・   バレーボール部の顧問になる

 正直、全く経験のない競技なので戸惑いと申し訳なさの連続です。でも最近、少しずつ見えてきたことがあります。
Ø  どうしようもないことはどうしようもない
 私はバレーボールに関して完全に素人です。高校生の生徒たちの方がよっぽど玄人ですし、技術的な面は絶対に優位に立てません。確かに数冊の本を読んだりしましたが、この「バレーに関する知識は常に生徒の方が勝っている」という点は常に忘れないようにしなければいけないと思います。
Ø  部活は技術的に伸びればいいだけではない
 確かに競技としての知識は無いのには違いありません。ただし、私の担当をしているのは「バレーボールのチーム」ではあると同時に、「バレーボールの部」である点を留意しなくてはいけません。部活である以上、「ただ強くなればいい」わけではないと信じています(もちろん強い分には一向に構いませんが)。生徒と関わっていて強く感じるのは、私の役割は「バレーボールの指導者」ではなく、「生徒自身が満足し、成長できる環境を整えるサポーター」なのだと思います。前述の通り、私は競技の指導はできません。おそらく、経験を積んでいけばどこかで変な自信をつけるようになるかもしれませんが、おそらく私がいくら経験を積んでもそれはプレーヤーのそれとは異なるものです。ただし、顧問として環境を整えることには全力を注ぐべきだと感じています。実際やっていると、目標の明確化や精神的なサポートなど、意外とまぁそれなりにやれることもあるもんだなぁと感じます。
Ø  何より楽しい
 まぁ偉そうなことを抜かしつつ、本音を言えば部活はとても面白いです。部活ほど生徒の成長を間近で感じられる場所はありません。もちろん、これが専門的な知識のある部活であれば更に思うことはあるのでしょうが、それがなくても楽しさをしっかりと感じています、もちろん申し訳なさこそ感じますが。
 まさか、私自身、ここまで部活に気持ちが惹かれる人種だとは思ってもいませんでした。昨年で一番の発見だったかもしれません。


・   忙殺される日々

 正直なところ、私も一人の人間であり聖人ではありません。上記で述べたことばかりの素晴らしい日々を過ごしているわけでもありません。多くは語りませんが、色々と犠牲にしている感もそれなりにあります。まぁ、こんな生活が想定外だったかと言われれば嘘になります。予想通りの多忙さです。さて、今は自らこの道に進んだことに喜びを感じることができていますが、この思いが10年後、20年後、後悔になってないことばかり祈っています。選択肢などないこのまっすぐに延びたレールの先には、幸せがあるのか。今の車窓の風景は悪くないけれど、果たして行き先はどうなのでしょうか。


・   イベントに携われる喜び

 もう面倒くさくなってきたので簡潔に書きます。文化祭やら体育祭やらがとにかく楽しい。何やかんや言いつつ、これが目当てで教師になったのかもしれません。祭、最高。


以上です。次に文章を書く気力が起こる日が来るのかどうかはわかりませんが、また機会があれば、色々とまとめていきたいと思います。ちなみに初夢では「英語教育をきちんとしなさい」と教授に怒られ、論文でも書こうかとパソコンと向き合った矢先に、部活や文章の仕事に追われてそれどころではなくなるという、何とも言えないものを見ました。まぁ、何が幸せなのかはよくわかりませんが、今年は「忙しさを言い訳にしない」という抱負のもと、しっかりと頑張りたいと思います。どうぞ宜しくお願いします。