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2021年5月2日日曜日

「才能の正体」を踏まえ、教師がやるべきこと

坪田信貴著「才能の正体」をもとにしたお話です。GWで忙しいので少し雑です。笑


才能は結果で評価される


「才能に溢れた人物」を想像しましょう。できましたか?


つい、「才能に溢れた人物」と聞くと、奇抜な行動をとる人物を想像してしまいがちかもしれません。しかし、単なる「異質」は「才能がある」とは言えません。例えば、「ピカソの芸術(ゲルニカ)」や「ゴッホのエピソード(自身の耳を切り落とす)」といった特異な点をイメージしがちになりますが、それは特異な点なので意識されやすいだけです。実際、「理解されない芸術」や「自傷行為」だけをもってして、彼らの才能を語ることはできません。

では、改めて、「才能に溢れた人物」と「そうでない凡人」の差は何なのでしょうか。結局それは、「結果」に過ぎないのかもしれません。犯罪を犯した人物とノーベル賞受賞者、双方が「昔から人と違う行動ばかり取っていた」というインタビューが報道されていた際に、我々は「やっぱり」と考える場合には、同じエピソードに対して、その伴った結果で行動の評価を変えています。すなわち、我々の判断は「結果」に基づくため、単純な「行動」という次元では「才能」とまでは言えないのかもしれません。


確かに、運動や芸術の領域において「結果は伴っていないけれど、確実に『才能』はあるんです!」という事例に直面する場合もあるかもしれませんが、そのケースは既に「結果が出そう」という部分に着目しているから「(将来的に結果が約束された)才能(の種)がある!」という判断がなされているのだと思います。


よって、「才能」を言い換えるならば「結果の伴う能力」と言えてしまうのかもしれません。


となると、「才能」を「天が授けしギフト」と言ったりしますが、天賦のものかどうかは関係がなく、結果を伴うのであれば、後天的なものも十分「才能」に含まれそうです。



結果は「行動の模倣」により生じる?


では、「結果」とはどのようにすればいいのでしょうか。この場合の結果は「才能と評価されるに値する結果」なので、言い換えれば「先人とは一味違う、前例のないような結果」のように思われます。


「前例のない」と聞くと、真っ先に「オリジナリティー」をイメージしてしまいがちですが、注意が必要です。何故ならば、ある程度の段階までは先人が築き上げた「王道」が正しいからです。先人が通ってきた道を振り返り、最短だと感じられたルートを整備したものが「王道」であり「教育」です。もちろん、「教育」の中には管理側のご都合主義や科学的な裏付けのない偏見も多く含まれている可能性こそありますが、基本的には効率化された「高速道路」。少し遠回りに作られていて「抜け道」はある可能性こそありますが、コンパスも持たずに藪に突っ込んでいくよりよっぽどマシです。とどのつまり、才能を育むためには「先人の行動の模写」しかないようです。


いきなり我流で、オリジナリティーを求めないことを留意しておくことが重要なのかもしれません。例え「全く同じ行動を取ろう」としても、その所作の中に個性が反映され、それがオリジナリティーを生みます。そこで出た個性の芽を進展させた時、初めてオリジナリティーとして評価されるように思えます。よって、「才能」と評価されるためには「結果」を求められ、それを産み出そうとしたら「行動の模倣」が求められることになります




「行動の模倣」を継続するコツ


才能を発揮させるのは「行動の模倣」と上述してきましたが、一筋縄にはいかないです。というより、全員が全員、行動の模倣を継続させることができるのならば、世の中「才能ある奴ら」ばかりです。しかし、実際には継続は困難(故に価値が生じるわけですが)。


以下の3点を工夫をすると「行動の模倣」が継続し、「才能の開花」が見込まれそうです。というか、そのままこれは教育の話に着地します。


認知

「不可能」と思われる内容を捉え直し、「可能」な下位区分に解釈する


「行動の模倣」を行おうとした際に、その行動が理解不能であれば模倣はできません。よって、認知の面で工夫を行い、理解を伴える内容へと解釈し直さなければなりません。初期段階では、完全に学校で行われている「教育」です。解釈不可能な事象に対して、切り口を与え、解釈を可能にする。運動・芸術・学業、すべての領域で共通しているステップなのかもしれません。しかし、この「認知」というプロセスを「一方的に享受する」という段階を抜けなければ、師を超えることができません。教育者に求められるのは「認知の内容を伝える」ではなく、「認知の捉え方」なのかもしれません。よって、具体的な解答を教えるよりも、そのプロセスをともに歩むのが理想の形だと改めて感じます。



欲求

「達成後のメリット」をイメージし、突き動かす


単純な「認知の変革のサポート」だけでは「行動の模倣」は継続しません。教育的な言葉で言えばある種の「動機付け」に置き換えられるのかもしれませんが、継続した努力を実行した先の利点について明確にすることにより、人は努力を継続させることができるのではないでしょうか。「この努力の果てに〇〇がある」と意識付けたり、刷り込むことは、教育者としては少し洗脳っぽさもあるかもしれませんが、継続には欠かせない要素なのかもしれません。最終的には、自身により自分の理想を想像し、そこへ歩み続ける力が求められるのかもしれません。元々ハングリー精神旺盛なストイック人間には不要な要素かもしれませんが、欲に浅く控えめな人間は努力を積み重ねるのをやめてしまうのかもしれないので、何かの契機に確認し直す習慣が必要なのかもしれません。



情動

行動中のメンタルケア


認知と欲求だけでは、努力が求められる「行動の模倣」は継続できません。最後に求められるのは「情動面のサポート」です。上記の「欲求」とは異なり、ここでは、短期的な精神の管理を指します。努力を続ける上で生じた不安や憤りについてコントロールし、よりポジティブな方向へ転換させる必要があります。これについては「師」である必要はないので、恋人であったり、ルーティーンであったり、自身の感情をコントロールできるものであれば何でも良いのかもしれませんが、この情動面を無視していると、いつか投げ出してしまう恐れがあるようです。




まとめと本音


才能を突き詰めて考えると結局、単なる「教育」の話になってしまいました。「天武の才能」と思考停止してしまうと、私の仕事は虚無になってしまいます。「結局、才能かよ」と思わず、一つずつ丁寧に生徒の才能を開花させていきたいと思いました。

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