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2021年5月23日日曜日

哲学者デューイ「テスト勉強なんてやめちまえ」

今回の記事では、哲学者であるデューイについて、その一節を(私の解釈をふんだんに交えて)再考してみます。



「テスト勉強って形式的すぎない?」


wikipediaによると、デューイは後期プラグマティズムに分類される哲学者。彼の著書『哲学の改造』の一節では、以下のように述べられています。訳がわからないので、例を挙げながら読み進めていきましょう。




・何であれ、目的が限定されていることは、思考過程そのものが限定されていることを意味する。思考過程が十分な成長や運動を遂げることが出来ず、束縛され、妨害され、干渉されていることを意味する。


例:ある少年は「話せたらカッコいい」というきっかけで英会話を学習し始めたとします。英会話教室に通う内に、いつしかその学習は、わかりやすい目的へと限定されていき、「TOEICで900点取るとスゴいらしい。TOEICで900点取りたい」という目的にすり替わり、「TOEICで900点取るためには、リスニングの問題で確実に満点近く取らなければいけない!」「TOEICのリスニング問題の典型的な展開と頻出単語さえ押さえればよい!」といった、更にわかりやすい目的に置き換えられていくことになりました。


我々の学習は進むにつれ、その目的は限定されていく場合があります。そして、目的が限定された学習は活用の用途まで限定されています。この例では、英会話の学習が、最終的にTOEICの典型問題の学習に限定されています。この場合、学習の目的が限定されたことで、彼の学習はTOEICの世界のリスニングの点数に関連した知識に限定されてしまいました。彼は目標を変えない限り、スピーキングの練習を始めることもありませんし、ビジネスシーン以外で広く扱われる日常表現に触れることもなく、「何のためにその勉強やっているの?」という状況に陥ります。

このように、我々の学習の目的が限定されればされるほど、私達の思考過程を狭めてしまい、実用性に欠けた形式的な作業に陥ってしまいます



・認識が十分に刺激される唯一の状況は、探求およびテストが進む過程で目的が発展するような状況である。


例:「TOEICのリスニング頻出単語をマスターする」という目的に囚われていた少年は、無事目標であったTOEICでの900点を達成し、次は「TOEFLでの高得点取得」へと学習の領域を広げたり、また外国人と実際に実際に会い、「足りない表現力を書籍や映画で学習する」ようになりました。


我々が学習を進めていく際に、その効率や成果をテストなどのわかりやすいものさしで確認する作業は不可欠だと思います。この確認の過程を完全に排除してしまうと、非効率な学習を続けてしまい、目的達成が困難になる恐れがあります(マラソンの「とりあえず、あそこまで頑張ろう!」「このペースならまだ行けそう!」「あそこまでは少しペースを落としてみよう」的なやつです)。一方で、いつしか確認作業の方が目的にすり替えられ、「テストで高得点を取るために!」といった学習に陥ることも少なくありません。目的が限定されることは、確認作業が学習の効率を確認するものさしである以上、ある程度は不可避なのかもしれませんが、故に目的を発展させ続けるということが非常に重要になります。テストでの得点を指標にはするものの、あくまでそのスコアは学習の効率を測定するための目盛りに過ぎず、これらは通過すべき目的として、絶えず次の目的へと乗り換え続けないといけません



・概念、理論、思想体系は、道具である。すべての道具の場合と同じように、その価値は、それ自身のうちにあるのではなく、その使用の結果に現れる作業能力のうちにある。


例:「TOEIC満点」の2人がいて、一方は「テストマニア」であるだけで実際に英語を使うことは全くないが、もう一方は様々な商談を英語で行うことのできる人物でした。


知識も道具に過ぎないので、「テストの点数」そのものがスゴいのではなく、それを使って何が出来るのかが重要ということだそうです。 





デューイの思想で解決できる昨今の諸問題


デューイ曰く、「使えない知識は意味ないよ」ということなので、現実の諸問題に当てはめてみましょう。


昨今、大学入試でも「思考力を問う」という風潮があります。大学入試の本来の目的を考えれば、「応募した人数を定員に絞り込む」だけの機能があればいいのでくじ引きでも良いのかもしれませんが、できるだけ専門性を高められる素質のある人材を集めたいので入試を実施します。最近では「思考力は問わない」と明言する組織もいるようですが、「土台となる知識の量で選抜する」という趣旨では成立していると思います。一方で、大学でも「実際の作業能力である思考力を重視したい」という趣旨で、「思考力を問う」ような入試を展開している大学も出てきているようです。個人的には、どちらも理にかなっていると思います。ただし、「知識を重視する」前者には、「選抜する試験が形骸化し、それそのものが目的となる恐れがある」というリスクを意識する必要があると思います。


また、高校で展開される考査・成績についても考えてみましょう。これらも「学習効率の振り返り」としての位置づけでその機能を果たし、あくまでも「展開されるべき目的にすぎない」のであれば有用だと思います。一方で、考査や成績が目的にすり替わり、「日々の授業が校内の考査(成績)のためだけの手段」に位置づいてしまった時に、その教育的な価値はあまり期待できません

(もちろん、無意識で能力が高まっているパターンも十分考えられます。物語で使い古された「この修業はこのときのためだったのか!」といった理不尽な特訓も、時間があれば悪くはないのかもしれませんが、3年間かけてやることはないのでは?と個人的には思います。)


学習内容を形式的に陥らせないために、「導入では実生活との関連を強調しましょう」とか「パフォーマンス課題を通して知識だけでなく思考力までを評価しましょう」といった風潮があるのだと思います。この議論の狭間に「それでも大学入試は土台となる知識を測定するような問題を構成している!どうしよう!」という葛藤が常に衝突してきたのですが、昨今では上記でも述べたように、大学入試そのものも思考力を測定する風潮があるので、気づけば過去のお話なのかもしれませんね。

(一方でパフォーマンス課題については、「自身の学習のモニタリングの機能を果たす」という本来の趣旨にしてはコストパフォーマンスが悪すぎるのでは?という疑念があります。授業内で能力を活用する場面を設ける部分までは賛同します。が、活用をそのままテストでも行わせるべく、実施と評価に膨大な時間を掛け、業務を無限に膨らませるほどの人材的な余裕を感じられません。例えば東京スカイツリーの高さを図るために、『実際に巻き尺を垂らして2日掛けて計測する』のと『比を用いて5分で計測する』場合に、前者の方を絶対的に盲信するのはアホらしく思えます。授業内で活用させたんだから、考査ではその能力と相関のある指標を用い、効率よく評価してあげればいいんじゃないの?と思います。もちろん、この場合は学習の形式化という問題に再ループすることになるのですが、、、)



まとめと本音


人が学習するのは「出来ることを増やす」というのが主たる目的ですが、ある地点で学習そのものが形式化し学習すること自体が目的になっていくケースが多いですよね。もちろん、学習内容が高度になり専門性が高まるほど、汎用性が損なわれていくのは仕方がないのかもしれません。高校の授業は基本的に、「学問を志す上では絶対に必須」レベルだけど、「基本的な生活を営む上では必須ではない」レベルの知識ばかり教えています。今の勤務校では、小・中学校で取りこぼした知識の多い生徒と大学進学したい生徒が混在しているので、特定の目標をクラス内で達成することが困難な状況(上位層に合わせると補填しないといけない知識が多すぎる一方、下位層に合わせると限られた時間の中では大学進学が不可能)です。しかし、とどのつまり「テストのための学習」に時間を割くほど、時間の余裕がないのは明白ですので、授業もテストも形骸化させず、実際の知識の運用という観点を軸に計画していく必要があるなぁと思います。


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